私が医療から受けた暴力は整形外科からのものがほとんどだった。整形外科というのは「形を整える」ということで、人はこういう風な形であるという基準に合わせようとする。
私と娘の骨は柔らかく曲がりやすいので、曲がった骨は更に折れやすいだろうから、とか、あまり美しくないだろうから、という理由で私は8回、手術をされた。娘は一度もしていない。私たちと同じような体の特質を持つ仲間たちも様々な多様性に満ち満ちていて一人ひとりかなり違う。ただ私の観点で言えることは医療の介入があった人であればあるほど骨折回数も多い気がするし、その人生はなかなかにしんどそうに見える。
元々、遺伝子が人と違っていて医学的には「タンパク質の代謝異常のような」と書かれてあり、同じ量のタンパク質を取り込んでも吸収できないそうだ。しかし考えてみればみるほど誰と比べて代謝異常と決めつけられているのだろう。誰が基準でどんな体が正しく生まれてきて良いと誰が決めるのだろう。そういう全く新たな基準で仲間達に出会ってきたここ40年、そして25年前に娘を産んでからは私たちの体はそれぞれに完璧なのだという確信を得た。
私が出会ってきた仲間たちはほとんど医療の介入を受けて、つまり形を整えるたことを重要視されて手術をされている。しかしただ一人、京都に80代になる女性の仲間は骨折回数は夥しいが一度も手術をしていない。彼女の主治医は近所の町医者で職人芸の包帯巻きの腕を持つ人だったらしく骨折する度、真っ黒な湿布の薬を貼ってその上にきちんと包帯を巻いてくれたそうだ。病院から帰るときには全く痛みは消えたというから手術はまるでしないで済んだ。
私は真逆で骨折をする度、遠くの医大病院に連れて行かれた。そしてそこからが恐怖の始まりで何枚もの、時に何十枚ものレントゲンを撮られ、その後つらい辛いギブスをされた。昔のギブスは国によっては拷問の道具として使ったという。全く動けないように固められ、夏はさらに暑く、冬はさらに寒い。その上、恐ろしいのは切るときだ。20回近くの骨折と8回以上の手術のたびに体の数センチ先を電気のこぎりが走った。今思い出してもあの爆音とイメージはまさに拷問に値する。
娘が生まれたときにはお腹の中から私と同じ易骨折性の骨であると知っていた。だから80代の仲間への治療と私がされたそれとの違いを熟考して、一切手術はしないと決めていた。そしてレントゲンも極力少なくし、ギブスも絶対にしないと決めていた。ただ包帯をきっちり巻いてくれる医者には会えなかったので彼女は骨折するたび、自分で動かないことを決め、じっとする1週間くらいを過ごし、そのあと痛みが軽減するとそろりそろりと動き出し2ヶ月も経たずに骨折前の生活に戻っていった。
娘を産んでから私は自分にされた残酷な治療の数々がどんなものであったのかをよく調べたくてカルテの情報公開を求めた。しかし医大病院は私が7、8歳の時に火事になったとかで全くカルテは残っていないと言ってきた。その後13歳までいた病院施設にも行ってカルテ請求。見なくても予想はしていたが、そこに母や私の意見を聞いたという一文は残念なことに全くなかったことだ。当時は医療の側に説明責任はなかった。だから医師たちは好奇心や向学心を医学の進歩と思い込んで、私がどんなにその治療に苦しんでいても一瞥もくれなかったわけだ。
私は娘の体は娘として完璧に生まれてきたと知っていたから同世代の誰と比べることもしなかった。だから何度骨折してもそれは彼女の体の特徴であるという確信を持って、ただただ痛みを聞くことに力を尽くした。痛みの軽減は鎮痛剤や湿布剤以上に涙を聞くことで為されると知っていたから。彼女は痛みで痛い痛い」と泣きながら、時に私を叩いたり私の髪を引っ張ったりと、痛みと動けないことへのフラストレーションを私にぶつけてきた。私は娘に叩かれながら小さな私が母や妹に、言葉でその辛さをぶつけたことを思い返し私もまた泣いた。
整形外科医療は健常者の体に合わせて、私たちの体を整えようという規範を正義として押し付けてくる。しかし押し付けられた側にとってはその規範は、全くの暴力でしかないかも知れないという想像力が微塵もない。
ところでオリンピックの開催が平和の祭典という、全くの虚偽暴挙の中に進められようとしている。オリンピックは私にとっては、私の受けた整形外科医療によく似た、優生思想に満ち満ちた痛みと絶望の祭典である。整形外科治療が患者の幸せを求めてのことでないように、オリンピックもこのコロナ禍で開かれることで人々の幸せどころか死を招く災いともなる。オリンピック後の世界も鑑みながら、開催までにあと10日を切ろうとしているが、それでも今はひたすらオリンピックを止める事に力を尽くしたい。