春なのにお別れですか、と、かつて柏原芳恵が歌いました。
人の縁とは不思議なもので、ほどほどの付き合いならばまた巡り合うこともありますが、強く結びついてしまった場合は絶縁に至る可能性が高くなるようです。
自分の話をここで書くわけにはいきませんが、人の絶縁を目の当たりにする機会もあり、あんなに仲が良かったのにどうして? という疑問には、近すぎたから、と答えるしかないのだなあ、としみじみ思います。
自分というものは、そのとき周りにいる人たちのエネルギーによって成り立っているので、特定の人のそれを取り込みすぎると、自分のエネルギーを出すことができなくなって自爆する。あるいは、自分のエネルギーをある人に注ぎ込みすぎると、反発を食らってしまう。
俯瞰すると自然の摂理のようにも思いますが、当事者にとっては一大事なわけで、愛し愛されることの何が悪いの! なんて思ってしまう。それでもそれを続ける限りお互い苦しむだけなので、結局のところ物理的に離れるしかなくなる。
先日、私にとってはセンセーショナルな一冊が発売されました。
『一度きりの大泉の話』(萩尾望都、河出書房新社)という本です。
数年前に竹宮惠子の自伝も出ていたので、あの頃のマンガ好きとしては、女版トキワ荘といわれた大泉サロンの話ね、という知識だけでページをぺらぺらめくると、なんと、竹宮惠子との絶縁について書かれた本でした。
あれ以来竹宮先生とはお会いしていません。あれ以来竹宮先生の作品は読めなくなりました。
えー! 萩尾望都は『風と木の詩』を読んでなかったのー?
売り場にいましたが、脳内でひっくり返ってしまいました。
ぜんぜん知らなかった。読むよ、読む、ちょっと待ってて。と一人でなんだか焦りました。
ああ、これは事件ですよ、奥さん、と知らない奥さんに話しかけ、すでにワクワクしていました。
悪い癖で、肝心なところを先に読んでから、一から読み直しました。
漫画家を目指していた高校生時代の話、デビュー、福岡から上京して竹宮惠子と一緒に住み始めた話、と序章があり、そして、20歳のときに、というか出会ってわずか2年後に、竹宮惠子に「距離をおきたい」と言われたときの衝撃。
理由がわからなくて苦しみ、目が痛くなり全身に蕁麻疹を発症したとあります。
あまりにもしんどいので、竹宮惠子から遠ざかることにして、そのときの記憶は封印してしまった。
竹宮惠子の作品を見ることもつらくなって、それからは一切読んでいない、と第三章が始まります。
しかし思い出してみれば、あのとき感じた数々の疑問がわいてきて、著者はそれを丹念に解きほぐしていきます。あの言葉はどういう意味だったのか、周りの人たちはこんなことを言っていたけれど……。
そしてついにたどり着いた解が「嫉妬」。そういえば誰々さんが「竹宮惠子が萩尾望都の才能に嫉妬したから、大泉を解散したのよ」と言っていた。
ここからが面白い。
それが答えだとわかっていながら、萩尾望都は「私には嫉妬というものがわからない」と切り返します。山岸凉子にも「あなたはそうだと思うわ」と言われた。
読んでいる私は、「天才たるゆえん!」と胸の内で絶叫してしまいます。
そのあと、「いいえ、人気連載をいくつも抱えていた竹宮先生が私に嫉妬するはずなんてない」とアクロバティックな展開をみせます。
では、「距離をおきたい」と言われた距離とはなんだったのか。
それは「少年愛」というジャンルのことだったのではないか。
あなたはこちらに来てくれるな、私の邪魔をしないでくれ。著者は、あのとき、そう言われたのだと解釈します。
けれど、そもそも「少年愛」というものが当時からわからなかったし、今でもよくわからない。
それを表現することを目指していたのは竹宮先生で、私は少年を描いていたけれど、それはあくまで友情の話で、自分は「少年愛」を描いてきたのではない、と自覚している。
まったくの誤解だったが、トロい私はそのことに気づかず、知らないうちに竹宮先生を苦しめていた。では、それが今わかったからって、謝るか? いいえ、謝りません。なぜなら、それは私の作品に対して失礼だから。
佳境でした。
終章は、「大泉サロン」って何ですか? 知りません。「少女漫画革命」? 参加した覚えはありません。「24年組」? そういうカテゴライズは意味がないと思います。お願いですから、もう、私のことはそこから外してください。
と畳みかけて、「覆水盆に返らず」という言葉と、また記憶を封印するというポエムで終わりました。
堪能……。この本はまさしく萩尾望都の作品で、『残酷な神が支配する』を読んでいたときの昂揚感を思い出しました。内面の腑分け作業が巧みで、とてもスリリングな読書でした。
もちろんそのあと、竹宮惠子が当時を描いた『少年の名はジルベール』という本も読みました。本人が、あの頃は物理的に離れなければいけないほど萩尾望都への嫉妬で苦しんでいた、と書いていました。
それは一過性のこととして書かれていましたが、萩尾望都の中では50年間も氷漬けにしていた大問題だったということです。
革命を目指して火花を散らしていた竹宮惠子と、その「とばっちり」を食らい沈黙を続けてきた萩尾望都。
勝負事ではないけれど、私の中では後者に軍配が上がりました。