私の年代かそれ以上の人たちには満州からの引き揚げ者を家族とする人たちがかなりいる。それぞれの戦争の中での体験はあまりに重く悲しい。そして私の父の家族の戦争をめぐる物語も本当に辛いものだ。
戦争は全ての人の大切な関係性や様々な環境を破壊しつくす。父の家族もその凄まじい破壊にやられ、父亡き後私たちの年代の従兄弟同士は残念ながらほとんど付き合いはない。
息子と父である、つまり私の父と祖父は、凄まじい家父長制と天皇制のなか、決して仲はよくなかったろう。多額の借金を抱え、福島から満洲へと一家で夜逃げした祖父。その祖父に連れられて、祖母は凄まじい苦労の中で子育てをした。
42歳で末女を産んでからは、産後の肥立も悪く、生まれた子も生後2か月で突然亡くなったという。祖母はその後すぐにその子を追うように亡くなった。
祖父は満州に渡ってからも、お酒を飲み続けながら、水産会社を起したようだ。その辺の経緯は父も叔父、叔母も誰も語らない。しかし祖父と日本の憲兵が立派な「水産〇〇会社」という看板の前できちんと並んで写っている写真が父の遺品の中にあった。
その写真と叔母が戦中であっても植民地主義の加害者の側の快楽を享受していたという証言によって、父が抱いていた葛藤を推論してのことだが。もちろん叔母は自分から自分の言葉で快楽を享受していたと言ったわけではない。彼女は、「満州は楽しかったわ。終戦までは、毎日毎晩ダンスホールで踊ってたのよ」と言って、中国の人たちの凄まじい貧困の状況には全く気づいていないか、気づいていても目をつむっているようだった。
祖母が凄まじい苦労の中で早逝した後、たぶん父は祖父の横暴にいたたまれず家を出て就職したに違いない。その後も祖父の、アルコールを伴っての女性に対する不実さや暴力性は父をはじめとし、子どもたちを傷つけ続けただろう。
しかし当時は不実で暴力的であることがいわゆる普通の時代であったから、父の腹違いの兄弟姉妹が何人いるかは本当によくわからない。わかっているのはその兄弟の何人かは残留孤児にされたということだ。
敗戦の直前に祖父は何者かに連れ去られ、水攻めの拷問で死亡。そこに残された4人の兄弟姉妹は、二十代はじめの妹をかしらに、両親なしに日本への逃避行を繰り広げたという。
だからその道中でのあまりに過酷な状況の中で、母親の違う兄弟姉妹にはそれほどの情をかける暇がなくなったのだろう。あるいは腹違いということは、彼らの義母は健在で、別ルートでの逃避行をしたのかもしれない。いずれにしろ私は彼ら以外の叔父叔母という人にはほとんど会ったことがない。
ただ確かなことは祖父には祖母以外に何人かの女性とその子どもたちがいたらしいということ。中国の大地に残ったそのうちの何人かの女性とその子どもたちに思いを馳せ、私は3年前に旧満州国を訪ねたのだった。
その詳しい話はまた別稿に書くとして、今はまた兄弟の話に戻ることにしよう。4人だけで日本に戻ってきた年若な彼らを待っていたのは、自分で生き抜かなければ誰も助けてくれないという過酷な現実。父のすぐ下の2人の妹はそれぞれ東京の中小企業の社長夫人と米軍兵士の妻となってアメリカに渡った。そのすぐ下の弟は10代ちょっとで自活のために、路上での物売りから始めたという。末弟はあまりに小さかったので福島のお寺に引き取られ、長じてからは県外に出てお寺の住職になった。
ところで父のすぐ下の弟は特攻隊をかろうじて免れ、捕虜にもならなかった。過酷な逃避行もなく日本に戻って来たはずだが、兄弟の中で最も自暴自棄な人生を送ったと私には見える。特攻隊の生き残りとして戦争が彼を強烈に追い込んでいったのだろう、彼のアルコール依存は凄まじかった(特攻隊で生き残った人たちの凄まじいサバイバル記が何冊も出ているので、ぜひ読んでほしい。私たちは、若い人たちの純粋さを利用し踏みにじった戦争、天皇制の謀略をきちんと記憶しなければならない)。
彼の子どもたちは、つまりわたしの従兄弟たちだが、男の子1人女の子2人の兄弟構成で私たちと同じだった。しかし彼の長男は30代始めに交通事故で死亡。下の2人も私はほとんど会ったことがなく、今は全くやりとりはない。その叔父自身も妻を早くに亡くし、私の父以外の兄弟からも嫌われ続けた。父が亡くなってからは、さらに孤独が募ったらしく、70代ちょっとで自死したのだった。
父の兄弟姉妹、そして彼らの腹違いの兄弟姉妹。旧満洲国、そして帰国してから繰り広げられた、私につながる人たちの人生を思うと戦争がどれほどにも過酷に彼らの人生を破壊してしまったのかと繰り返し繰り返し辛くなる。
そしてそれぞれのあまりにも辛い人生を掻い潜って生き延びた先の子どもたちの人生もまた、繋がりを分断されてしまっている。特に戦争に行った男性たちのアルコール依存は、それぞれの家庭にDVや家庭崩壊を招き続けている。そんな中、私の兄もまたアルコール性のアルツハイマーと診断されて10数年になる。
だから私はアルコール依存、そしてアルコールそのものを心から嫌悪して遠ざけたいと思っている。幸いなことに、私の妹の3人の息子たちは、全員お酒を飲まない。私の父、つまり彼らにとっての祖父がどんな飲み方をしていたかをよく見ていたし、彼らの父であり妹の連れ合いも激しい飲酒歴を持ちながらも決断してピタリと飲酒を止めた。
彼らを見ていると、人間の可能性は無限であると思える。戦争の過酷な記憶を乗り越えてアルコールから自由になり、豊かな関係を作ることはできるのだと。戦後の大量消費至上主義のなかで、アルコールはさまざまな場面で「良きもの」として使われてきた。しかし私は、それがどんなに虚像の劇薬であるかということを再々認識して私自身と人々に平和な関係をつくっていきたい。