連載の間が空いて申し訳ないです。好意を寄せる人と高級ホテルに行って何もなかった前回から早2カ月以上が経過。この期間にモテてモテてしかたない……状態であればよかったのですが、先に結論を申し上げれば残念ながらそうではない。しかし、いくつか変化があったのでご報告差し上げたいと思う。
前回の連載をお読みくださった何人かから、その後、一緒に泊まりに行っ(て何もなかっ)た相手とはどうなったのかと聞かれることがあったけれど、何もない。というのも、私はその相手に対して長年漠然とした好意を寄せていたものの、その夜にたくさん話した結果(確かに楽しかったのだけれども)、「なにか違う」という感じがしたのだ。そして、数年ぶりに気になる人がまったくいないという空白状態に突入した。
その後、私はどうすればよいのか混乱し、泥酔して友人にチュウをせがんだりしてしまったので(これは性暴力になりえるという点でも猛省した)、酔いが覚めてから「このままじゃいけない」とがくぜんとした気持ちに陥り、「よく当たる」といううわさの、代官山で知人がやっている占いに行って、「恋愛運を見てほしいんです!」と食いつき気味で相談を持ちかけた。知人はタロットカードを何枚か引いて、「今は、恋愛どころじゃないでしょ。もっと大事なことがあるはず。家の掃除とか」とビシッと言う(ついでに4月には体調を崩すとも言う)。
確かに、それどころではなかったのだ。占いに駆け込んだ頃、私はついに転職が決まり、退職の準備に追われていた。そうです、ついに職場が変わりました。職種が変わり、年収は100万円以上アップした。前職では、常に経済的に追い込まれているような感覚から逃れられず、それによって知らず知らずのうちに、自分の価値も低い低いと思わされてきた。(額面)100万円の違いが、これほどまでに精神的安定をもたらしてくれるとは意外だった。というのも、私はお金がなくても自分は幸せだと思ってきたからである。私はお金には左右されない人間だ、と思ってきた。しかし、選択肢が広がること、そして、何かをしようとするときに金銭的なボーダーを(ある程度は)いちいち考えなくてすむことは、これまで認識すらできずにいたストレスを減らしてくれる。住み場所も変えようかしら。そんなことを思いながら、海に近い街を歩くと気持ちがよかった。
私にはできないと思い込んでいることがたくさんある。多くの自分で課した限界に、私は自分で気がついてすらいない。そこを突破することには勇気が必要だけれども、突破してしまえば、どうしてできないと思っていたのかしら、と不思議になるほどだ。
(……この連載は、この気づきを繰り返しているだけという気もしてくる)
いよいよ前職の職場を去るとなった頃、住環境に変化があった。と言うのも、取り壊しのうわさもある、あの有名な建築「中銀カプセルタワー」にマンスリーレントがあることは知っていたのだが、ある夜(ちょうど友人にチュウをせがんだ頃)にSNSで、あと2期で募集が終了すると読み、ダメ元で応募したところ抽選に通ってしまったからである。退職時に社会保険料や住民税を前払いせねばならず、年に1度の年末のボーナスも諸事情で数万円しかなかったので、賃料12万円は分割払いにしてもらった。1月下旬からの1カ月、1週間に数日、植物の水やりのためにいつもの部屋に戻りながらも、銀座にあるユニークな建築の一室で生活を始めることになった。この原稿も、カプセルタワーの一室で書いている。
あれほどお金がなかったのに、どうして12万円も出せたのか。お金の工面は必要だったけれど、私はお金を出すこと自体にためらいはなかった。あの建築の中にいたらどんなことを感じるのだろうと興味がわいたからである。逆に言えば、それ以上のやりたいことはすべて後づけだったのだが、1カ月間の銀座住まいは、上記した「自分に知らずに課している限界を突破すること」にはとてもプラスに作用した。田舎出身というよりも、まだ田舎の一員であるように感じて、それを誇りというよりもコンプレックスに感じてしまっている身にとっては、銀座と言えば、自分とは対極にあるところ、キラキラしていて、私のような人はふさわしくない場所だった。しかし、今、私は背筋を伸ばして、自分の気持ちの向かうままにあちこちのお店に入り、おいしいものを食べて、お店の人と和やかに短い会話をする。面白いと思える話を聞く。私もさらっと自分の話をする。そう、肩の力を抜いて会話ができるようになった。まだ、おどおどとしてしまう瞬間もあるけれど、知らない人と、互いを気づかって会話ができるようになったのだ(もちろん、お店の場である以上、向こうからの気づかいは上回っているし、その存在は当然視してはいけないものだけれど)。
先日、友人の提案で二村ヒトシ『すべてはモテるためである』(イーストプレス刊、文庫ぎんが堂、2012年)の読書会をした。私は、こんな機会がなければこの本を手にすることはなかったと思うけれど、モテるためには、まずはその目的を一度頭から拭い去って、相手を見下すことなしに対等に対話をできるようにするという、この本のメッセージには好感を抱いた。自分だけが気持ち良くなるように一方的に話をするのではなく、その場が穏やかになるような、心地よい空間が立ち上がるような「会話」をするのだと。二村が言うには、
「自意識過剰な状態に陥る」こともなく、自分が傷つくことを過度に警戒するようなプライドを捨てることができれば、「ごきげん」になることができ、自然にモテていくのだと言う。
二村は、自意識過剰にならずにいられる対等な関係を築くための実践としてオタクになることを勧めるのだが、それは以下のことを理由としている。つまり、「【あなたの居場所】というのは、(…)【あなたが、一人っきりでいても淋しくない場所】っていうことです」。そして「自信と謙虚さをもって立って(…他の人とも)ある程度のコミュニケーションができるようになれれば(…モテにとっては)理想的」だとして、モテに至ることができるという。確かに、自意識過剰でもなく、自分のプライドを守りたいがために他人に対して防護・攻撃の姿勢をとるでもなく、一人でいても揺らぐことなく、ごきげんでいられるのなら、そうした人と一緒にいたいと感じるのは当然だ。
銀座の生活で、いろんなキラキラした場所のドアを開けるごとに「私なんかが」というようなチンケで偏屈な気持ちが薄れていく。ふっと入ったお店で笑顔になれるような短い会話があるとき、それは経済的なものを前提としているといえども、その穏やかな気持ちは友人との関係にも知らず知らずのうちに応用されていく。穏やかさの感触があるから、それを再現しようとするのだ。それが「モテ」には結実していないものの、私は今のところ、この生活をとても楽しんでいる。