父は呼吸器の弱い人だった。満洲鉄道に勤め始めた十代で気管支炎にかかり、実家から離れて転地療養したという。だから、二十歳の徴兵令検査では見事に不合格。3度目か4度目の徴兵令検査でようやく丙種合格だった。
一口に徴兵検査と言うが、この徴兵検査の中身がどれだけ残酷か、検査が暴力そのものなのだ。私たちの時代には学校の身体検査もなかなかに暴力的だった。たぶんこの徴兵検査の影響を受けていたのだろう。
さて、徴兵検査であるが、褌一本になって、様々な測定をされた後の検査があまりにも異様だ。褌だけのまま列を作って並ばせ、そのうえでその褌も取らせて、お互いに並んだまま自分のペニスをしごくことを強制されたというのだ。辱めを受けることでの絶望的屈辱。最後に、軍医がみんなに「足をまっすぐにしたまま床に手をつけ」と命令。そして一人ひとりの肛門を彼がチェックして見ていくというのだ。全員が見ている前でお互いに顔を見合わせられる位置でやられたのだ。その肛門のチェックは兵隊になったときに1番使えない兵士は痔持ちの兵士と言うことでの必須の検査であった。
私はその文章を読んで、父が3度もそれをされていることに驚愕した。そこから、シベリアで捕虜になるまでの日々、そして捕虜になってからの、天皇制に対する強烈な憎悪と自分の残虐さに対する後悔。彼のアルコール依存症の背景が見えた気がした。
捕虜の中から比較的若い人たちが集められ、ウォッカを飲ませられながら、半年近くの共産主義教育を受けたという。父はお酒を飲みながら、「ナロウドニキ」(人民の中へ)、「タワリシ」(同志)という言葉を教えてくれた。また、父にとっても意味のよくわかっていなかったであろうロシア語の歌も歌っていた。その教育を受けるためには選ばれなければならなかった。
父がどういう基準で選ばれたのかは話してもくれなかったし父自身にもわかっていなかっただろう。わかっていたことはただ一つ。その教育の場に行けなかった人たちは、凍てつく寒さや過酷な労働に殺られ続けていたということだ。帰国への望みを断たれていく仲間の中で、彼は教育を受けたことで、捕虜としての労働現場も少しずつ楽な場所に変わっていった。
祖父の商売は魚屋だったから、彼は小さな頃から魚が大好きだった。捕虜としての仕事の中でも、魚の荷揚げの仕事をしていたときは、仕事も楽しかったし、市場へ出せない魚を捌いて食べた。たぶん彼は魚を捌きながら、故郷の福島に帰るという希望を保ち続けたに違いない。
結婚後、彼は、兄が釣りで取ってきたウナギや、年末に送られてくる荒巻鮭を上手に、そして無口になって捌いていた。それは彼に、捕虜の生活の苦しみと生き延びられたことの喜びを同時に感じさせていたのだろう。
彼は教職をレッドパージで追われた後、福島市内の書店に勤めた。そして、学校教育の中で使う補助テキストを作る仕事に着手。その頃、どんどん多くなっていた交通事故を減らすべく『交通安全読本』や、福島の子どもたちの作文集『福島の子ら』などのサブテキストを製作し、市内の小中学校に販売して歩いた。もともと無償で配られる教科書とは違うから、商売であるサブテキスト販売には教員や教育委員会との様々な駆け引きがあったらしい。
妹の子どもたち、つまり彼にとっての孫が次々に不登校を始めたとき、彼は母とは違って彼らの不登校を咎めることがなかった。それどころか、「ろくな教員がいない学校に行く必要はない」と、私につぶやくように言ったのだった。父は、私が地域の普通学校への登校を拒絶されていた中学1年の3学期、教育委員会に足を運んで、なんとか私の登校が認められるように働きかけてくれた。
今思えば、私を拒絶しながら退職した校長の後に来た新校長も、私の顔を見て嫌な顔をした。しかし母が何十回も泣きながら通い尽くして熱心にお願いした思いが通って、教頭が校長の代行代理で、私の入学を決めてくれたということだった。つまり父の教育委員会への働きかけは無駄ではなかったろうが、結果としては母の涙が功を奏したのだった。
そうした学校教育を担っている人々のあり様に、彼は彼で幻滅していたのだと思う。兄に対しては、「男なら高学歴と高収入を目指せ」と言っていたにもかかわらず、孫であった3人の男の子には一切それを言わなかった父。
兄の父に対する反発心と拒絶を感じていたからこそ、和解を求め、父は常に兄をお酒に誘った。残念ながら兄のほうは幼いときに彼の暴力的な支配にうんざりし続けていたためか、父を許せたのは父の臨終直前の2日間の介助によってであった。
医療をもって人のそばにいるときは、専門性がお互いの関係性になんらかの影響を与えるが、「介助」という自分の身体の自由を対等に分かち合おうとする試み、それは兄が父に抱えていた長期にわたる確執を氷解させてくれたに違いない。私は、父が亡くなった1月6日まで、兄がお正月休みだったことを利用して、兄に父の食事介助等を徹底的に担ってもらった。
たぶん父は兄に対して持っていた無駄な責任感から、自分が介助してもらうことによって完全に自由になり、言えなくて言いたかった一言を伝えた。「お前が息子でいてくれて本当によかった」。そして兄は私に「せっかくのお正月休みを父の介助になんて使いたくないなんて言ってごめん。とても大事ないい時間をありがとう」と言ってくれたのだった。