先回私は、私の幼児期から10代までを詳述して、「医療の暴力とジェンダー」というタイトルがなぜできたかを紹介したいと書いたが、今回は幼児期以前の母と医療との関わりを見ていきたいと思う。
私は30代になるまで、母のジェンダー意識満載の医療に対する恐れ、従順さに怒り続けていた。一方で母の愛情無くして私の人生はないと知っていた。そして彼女の愛情深さは時に驚愕に値するものでもあったから、心から母を許したいとも思っていた。
母と私の間に優生思想に満ち満ちた医療があったことで、私たちの関係性は歪なものになったのだと認識していたから。
母は1928年(昭和3)、貧しい小作農の祖父のもとに双子の姉としてうまれた。父との結婚後すぐに、その最愛の妹が粟粒結核で亡くなっていた。だから、母は私を産んだときあまりに大きな喜びで、私に障害があってもただただ生きてて欲しいと願わずにはいられなかったのだろう。
母の結核で亡くなった妹と医療との関係は、最悪だった。もし貧しくさえなかったら、その頃すでに出回っていた抗生物質を投与さえすれば全快したに違いない、と言われている。祖父の従兄弟がアメリカからなんとかお金を工面して送ってくれた時は、すでに遅く、祖父はあまりの悲しみで突発性難聴となり、それは終生のものとなった。
母とその妹は7人兄弟の3番目と4番目で、生まれた時から非常に仲良しだった。母はよく幼い頃の彼女たちを取り巻いていた人々や自然の風景を話してくれた。昭和生まれの双子だったので、母の名は「昭子」、妹の名は「和子」といい、「私よりカッちゃんの方が更に、優しく、大人しかったな」と言っていた。家の小さな庭にあったザクロと柿の木の下で日がな一日、2人で遊び転げていたという。近所にいた子供の居ない高齢の女性が彼女ら2人を可愛がってくれて、たまにその彼女に呼ばれるのが嬉しくてたまらなかった。
彼女らがその頃着ていたのは着物で、小さい2人がパンツも履かず、着物の襟を重ねて、きちんと帯を閉めていただけだったけれど、何も怖いことは起こらず、それはそれは長閑な光景だった。
妹が結核になってから、母の結婚の話が持ち上がったが、母自身は少しも結婚したいとは思っていなかった。ただただ彼女の看病に通いたくても、結核が伝染病だという事で面会は拒絶された。
その数年前に母の兄が結婚した相手が実家の格、身分が少し高いということもあって、祖父母はその嫁に大いに気を使ったらしい。
母のすぐ上の姉を結婚させようとしたが、彼女は断固としてそれを拒否。病床の妹と別れ難い母に、その姉は「お願いだから先に結婚してくれ」と頼み込んできたという。
戦後すぐのことでもあり、母の弟妹たちも大勢家の中にいる中、母は祖父母の気持ちを気遣っていた。そんな時にシベリアに4年半抑留され、帰ってきて間もない父からプロポーズされた。
父と医療のこともまた次回、丁寧に書こうと思うが、母は結婚後、1週間で亡くなってしまうという妹の危篤状態があって、尚更、祖父母を気遣ったのだろう。貧しく、一文無しのシベリア帰りの、それでも教職員組合の専従から中学校の教師になれるかもしれないという父との結婚を了承した。そこにはもちろん、祖父母の娘への思惑もあった。つまり父の両親は戦争で、すでに満洲で亡くなっていた。父の妹弟たちは満洲から苦労して引き上げて来てから東京にいた。私の祖父母にすれば、娘を姑姑との関係で苦労させたくなかったので、戦争帰りの父に一抹の不安を感じながらも、父からの申し出を了承した。その一抹の不安を言語化し、さらに父から「娘には絶対に手をあげない」という証文をとっている。
祖父は貧しくて中学校にも行かなかったが、仕事先で雇用主に可愛がられ文字を習い、達筆であった。祖母は「女に学問はいらない」という時代だったので、何故かカタカナだけ書けた。その2人に、母に対する暴力は一切振るわないと約束して、2人は一緒になった。
戦後の農地改革や民主主義という新しいシステムの改変の中で、それでも結婚を急がせる祖父母に従わざる負えなかったのは、家父長制度のマインドが家族、親戚、近所に、そして母自身に、厳然と残っていたからに違いない。危篤状態にある妹がもし、死んでしまったら1年間は喪に服さなければならないから、早く結婚しろというプレッシャーに耐えかねてのことだった。もし双子の妹に抗生物質が間に合って生き延びていたら、彼女があのようにも急がされて結婚することがなかったら、命が守られるためには医療が本当に大事なのだと、彼女がどんなに思っただろうということは容易に察せられる。
その上彼女は結婚後2年目くらいに、死んでもおかしくない程の病気にもなった。激しい高熱と頭痛を患いながらも、すでに私の兄がいたのでゆっくり養生することも叶わなかった。なんとか祖父母や兄妹たちの助けを得て、その病は乗り切ったが、父からの助けはあまりに不十分だったという。
母の幼児期から結婚前後まで、日本は戦争の真っ只中にあった。戦争という最大の暴力の中で、医療は命を守るというより、戦争で有用な人材養成のためのシステムに位置づけられていたのだ。