2017年公開の「20センチュリー・ウーマン」(原題はwomenで複数形)は、1979年当時15歳である主人公が母や同居人、幼なじみに囲まれてフェミニズム文献を読みあさる、「男子をいかに育てるべきか」という疑問への模範解答のような映画である。
作中、幼なじみ役のエル・ファニングは、いろんな男子とセックスをしまくっていて、毎夜、主人公の寝床にやってきては眠るだけ。何もしない。その姿を見とがめて、同居人役のグレタ・ガーウィグは主人公にこう言う。
「セックスする気がない人の隣で寝ちゃいけない、自尊心が下がるから」
この言葉にはドキッとしたのでメモしておいた。というのも、私は男性の隣で寝て、あるいはそのような意思を示しても何もないことによって自尊心が下がった経験がこれまで何度もあるからである。別に相手のことが好きじゃなくても、断られるとへこむ。自分は求められない人間であるということを追認されるような気がする。つまり、自分でも「私は欲情されない女だ」と思っていて、それが立証されてさらに落ち込むのだ。
ところで私はつい先頃、長年の知人に対し「Go To行きませんか?」という新たな誘いの方法を試し、相手が思いがけず「いいね、行きましょう」という返事をくれたので、平日の仕事帰りに都内の高級ホテルで集合し、翌朝はそこから仕事へ向かった。
知人に対しては好意があり、何度か飲みに行ったことはあるけれども実はどんな人なのかよく知らないし、ともかく「この人じゃなきゃだめ!この人がいない世界は考えられない!」というような絶対置き換え不可能な存在では(まだ)ない。しかし、とてもいい人である。(そしてかっこいい!)
最初に「行きましょう」という返事がきたとき、私は自分で誘っておきながら、「こんな(低みにいる)私の誘いに乗るなんて……」というような嫌悪感のようなものを抱いて、途中までは、「Go To中止にならないかな」と思っていた。しかし向こうも宿泊自体に対しては乗り気の様子だったので、友人に相談し「万が一の事態に備えて」コンドームを買って行った。
自分がその人と、あるいは誰かとでも今寝たいのかどうか、あまりはっきりとしない。それに、相手がどう思っているかはまるでわからない。当日双方が合意の上でそんな気分あるいは雰囲気になった「万が一の」時のためには必要だと思ったのである。
しかし、私は性的経験も交際経験も「恥ずかしい」(と思ってしまうぐらい)少ないので、買いに行くときは、まるで中学生のようにドキドキしてしまった。こんな人(=私)がコンドームを買っているなんて、と店員さんに心で笑われているような気さえした。(きっとそんなことないのに。)
友人が、無印良品のコンドームはパッケージもおしゃれだし個数も少ないので、買いやすいし印象も良いよと教えてくれ、言われた通りに買いに行って、お菓子とお菓子の間に挟んでレジで会計したのだ。(ちなみに「コンドーム」という言葉には抵抗があって、高校生のときは絶対絶対絶対口にしたくないと考えており、保健体育のテストにも空欄で提出したところ、後日、体育指導室に呼び出され、「学年で答えを書かなかったのはお前だけ。大事なことなんだぞ。コンドームって今ここで言ってみろ!」と指導されたことがある。)
ということで、もしもに備えてコンドームを買ったものの、一方で、これは相手からすると気味の悪いことである可能性も十分にある(のにコラムで書いてすみませんね。本人は読まないでください)。というのも、例えば友人関係、あるいは仕事関係で、こちらは人間と人間として接しているのにもかかわらず、向こうは性的なことを前提とし意識しているということに気がついて絶望的な気持ちに陥ったことは私でさえあるし、そういう時は、それまでの全ての時間が裏切られたとさえ感じる。
だったら、どうすればいいのか――。友人が以前教えてくれた答えは、最初に「私はあなたに好意を抱いていて、あなたもしたいんだったらセックスしたいと思っています」という風に(女性の側からも)伝えるということだった。これは実際やってみようと思うとハードルが高いように感じるけれど、スウェーデン(2018年法改正)のように「同意のない性行為は違法」とすることを目指すのであれば、やっぱりきちんと考え、自分でも実践していかなければいけないことのように思う。
とはいえ、今回の私は、相手に対して好意のあることはやんわり伝えてあるけれども、友人が提案してくれたセリフのようにはきっちり伝えることもせず(というのも自分の気持ちがまるでわからなかったからなのだが)、条件が整わないかぎり無印良品のコンドームのことは忘れることにした。
そうして先日、実際に2人で高級ホテルに宿泊したのだが、結論から言って、コンドームは使われないままにカバンの奥底にしまわれたままだ。そして、なおかつ私の自尊心は傷ついていない。
当日、クーポンで軽く食事をしてから、部屋でお酒を飲みながら話をした。子ども時代や仕事のこと、家族のことなど……。話は尽きず、私はオデュッセウスがイタケーに帰郷し、ペネロペイアと過ごしたたった一夜のように「夜が延びないかなあ」と期待してそう口にもしたけれど、淡々と時間は過ぎ、深夜2時になったので、「そろそろ寝ましょうか」ということになった(ビートルズの「ノルウェイの森」の歌詞みたいだ。)
私たちは別々のベッドに収まり、ホテルの真っ白なパジャマと絹のようになめらかなシーツにくるまれて、(飲み過ぎで何度かトイレには起きたけれど)朝までぐっすりと眠った。
目覚まし時計に起こされてカーテンを開けるとオレンジの日差しがさしていて、窓からセントラルパークのような風景を見下ろし、おいしい朝食を食べて、コーヒーをたくさん飲み、そして解散。充足感を胸に職場へと向かった。
とても楽しい一夜だった。
私がこう思えたのは、もしかすると相手のこと(やっぱりよく知らない)をまだそこまでは愛してはいない、「今すぐにこの人の子孫を残さないと死ぬ!」と感じて相手に強く性的関係への意思を問うほどではなかった、という結果だったかもしれない。
何もなかったから(と書くには抵抗がある。たしかに私たちはひたすらに話し、相手の話を聞くということをしたのだから)全く自尊心が傷つかなかったかと言えば、やっぱりそうは言い切れないとも思う。いい年齢の男女がホテルの密室に泊まって、ひたすらおしゃべりをして「おやすみなさい」と眠りにつくって、〈やっぱり私に魅力がないからなんじゃないかしら〉という考えは、どうしたって湧く。
それでも、たくさんおしゃべりして、ぐっすりとそれぞれの寝床についた時間は、圧倒的に、やっぱりとても楽しかったのだ。そう、楽しかった。友達なのかよくわからない知人である相手の生活について聞き、その友人についての話を聞いて、さまざまな表情を見るにつれ「そういう生き方や世界もあるんだな」「そんな風に物事を感じているんだな」と、深い方へと潜ってその人と向き合うことは、やっぱりものすごく楽しい時間だった。そして私は自分の話もかなりしたようである。それに、「きれいだねー」なんて夜景を見て、言葉少なにぼうっとしていた瞬間でさえ、とても楽しかった。
私は普段、(スーザン・ソンタグの言葉を借りれば)「口が下痢気味」と思うほどに無意味なことをぺちゃくちゃとしゃべっているけれど、人に慣れると、途端に話す努力を一切止め、だまりがちになる。翌朝の解散の間際、(二日酔いの影響もあるだろうけれど)私たちは口数少なく、それがまた安らぎを感じさせた。木々は紅葉していて、とても気持ちの良い朝だった。
グレタ・ガーウィグよ、隣で寝てセックスしなくても自尊心が下がらない一夜というものがある。その充足を知ったことで、私はまたちょっと、不思議な一夜を経験して成長?し、きっと次からも性交渉の有無に引きずられずにその時間を楽しむことができるようになった(かもしれない)自分のことを、もっと好きになれそうだった。しかも私の手元には無印のコンドームが残っている。今度、心からの熱情に突き動かされる相手がいれば、私はきちんと友人が考えてくれたような問いかけをしたい。