95歳(大正14年生まれ)の母と同居住まい。パフスペース(※2003年にイトー・ターリさんが始めた早稲田にあるセクマイ女性、レズビアンのためのレンタルスペース)の家賃と住まいの家賃の両方はいかにも支払えないと居候を決め込んだのは2003年、だから18年が経っている。母にとって呑気な老後のマンションひとり暮らしだったはずなのに。母も私も、私が難病を抱える事態が巡って来るとは露ほども思っていなかった。
母は70歳になってから洋裁を習い、23年間通い、自分の服を始め私や姉のコートまで作っていた。最近はついつい根を詰めてやりすぎて、腕が悲鳴をあげてだらりと動かなくなる事態が起きるようになり、洋裁はしなくなった。それでも袋物など小物を作っては、人に、ヘルパーさんにあげたりする。この4、5日はコレクションしていた美しい布に芯地を貼って、綺麗にあしらい私製ハガキに貼って、せっせとハガキ作りに勤しむ。そして、せっせと会う人会う人に渡している。
ひとつ月前にアーティストのプロジェクトのリクエストに答えて、母の「おばあさん」のことを書くことになった。3週間は没頭して便箋に向かっていた。遠い過去を振り返り、振り返りそれを便箋9枚にまとめ上げた。明治30年代から昭和34年までを振り返るのだから大仕事だ。普段から昔のことを多く語る母がますます熱をおびて語りかけてきた。手紙以外に文章を書いたことはなかったはずの母が書いた。母にとって、おばあさん以外の人々とも再び向かい合う得難い時間だったのではないか。書き終えて、その余韻が空白になることがいやで、せっせと手を動かして、ハガキを作り、自分らしさ発揮したいと思っているのではないだろうかと隣にいる私は考える。母はそういう人だ。
毎日3食、顔を突き合わせて食事をとっているから、できないことが増えてゆく私の姿を一番見ている人だ。自分の皿におかずを取り分けることもできない私を前に何を思っているのだろうか。洗い物も、食器を運ぶことすらできない私に。
このような情景はいつも平安だったわけではない。ただでさえ、母娘喧嘩は絶えないものなのに進行性の難病というおまけがついてしまった状況に辛さが付きまとった。一体何が原因で何が起きようとしているのか、病名が言い渡されても結局わからない。その解らなさと反比例するかのように、次第に不自由になって行く私の姿にたじろぐ。初めは杖や手すりですんでいたものが、電動車椅子を置くための改修、トイレの改修、キッチンの改修、つい最近は母と私の部屋の交換改修と拡大していった。家が介護ハウスに変貌していったのだ。
私は自分の不自由さによる不満をぶつけ、母は「私だっていくつだと思っているの」と叫び、言い合いが絶えない。耳の聞こえがとても悪くなった母との会話はかみ合わず、つい喧々する私。やれやれ。母は私のあの時のあの偏向食が体を痛めたのだと決めつける。私は腹が立ち、言いようのない虚しさに支配される。
しかし、昨年のALS告知で、私も母もぶつかるエネルギーがダウンしていった。だから、喧嘩も鳴りを潜めた。母は体が辛くなっているにもかかわらず、生活を保たせようと頑張っている。一層丸くなった背中や歩幅が小さくなった歩みを見て、申し訳ないなあ。
母にTシャツの着替えを手伝ってもらった1回目はさすがに複雑な思いにかられた。幼児期の感覚を思い出し、ぞくっとした。そんな思いは2回目には消えて、平気に手伝ってもらい、それがまた不思議だった。
逆転すること。それは考えたくない順番のこと。先には逝きたくない。母は生命力があるから、困ったなあ。これは私の身勝手な感情だと思うようになった。バカ言ちゃいけない。母はどっこい95年も生きてきた人間ではないか。半端ないでしょ。
でも、ただ、もう一つ不安なことがある。私は来るだろう近い明日のために重度訪問介護の申請をしようとしている。例えば夜間の10時間滞在し介助する仕組みだ。障害者総合支援法下の制度。母にしてみればヘルパーさんが同じ家にステイするということ。これはストレスじゃないか。すでに日曜を除く起床時と就寝時、昼間のいくつもの生活介助や身体介助が入っているので慣らされてきているのは事実だけれど、長時間にわたって人が家に留まるって、どういう感じ?ここでは母にかこつけているけれど、私自身もどうなんだ。
一緒に住んでいきましょうと話したけれど、どうなるのかなあ。その都度、その都度、話し合っていくしかないでしょう。重い荷物を背負わせてしまったな。
重度訪問介護がなければ、介護保険だけで24時間介護はあり得ないのだから、選択は重度訪問介護になる。ALSの患者にとって欠かせない介護制度である。
私が生きることに執着を持ち、生きたいと思うこと。母が一緒には住めないと言うのなら、私は家を出て、自立するということ。
母と私、なるべく力を抜いていきましょう。楽しいことをしましょう。