9月25日、自民党の杉田水脈議員が性暴力被害者支援についての会議の場で「女性はいくらでもウソをつけますから」と発言したというニュースが駆け巡った。この発言を受けて、署名活動や緊急フラワーデモの開催がすぐさま決まった。わたしもそのフラワーデモに参加するつもりで準備をしていた26日未明。父が、亡くなった。
「間に合いたければ」今すぐ来るようにと連絡を受けた時、電車はもう、動いていなかった。着替えをするのにすらあたふたしてしまって、靴下がうまくはけない。こんな状態で、深夜に慣れない道を車で急ぐのはいくら何でも無謀だった。
深夜に何十キロもタクシーで飛ばす日が来るとは。ああ、タクシー代、と、お金のことが頭に浮かぶ。そういえば、最近、臨時収入があったのだった。回らない頭で計算すれば、ちょうど、この深夜のタクシー代に相当する額だった。人生ってうまくできている。プラスとマイナス。入ってきた金と出ていく金。
トラックぐらいしか走っていない深夜の国道。街の明かりが遠ざかり、車は山の中に入る。暗闇に吸い込まれていくような気分の中で、何人もの女性から聞いた話を思い出した。
バイト仲間の男性から送っていくと言われ、乗り気じゃなかったけれど、他にも同乗者がいたから車に乗らざるを得ず、でもひとり降りふたり降りして、結局残ったのは自分ひとりになり、車は寂しい山道に入って……。助けを呼ぼうにもどうやって。抵抗しろとか逃げろとか、そんなのムリムリムリ。誰だって、こんなところで放り出されたら、と思ったら逆らえない。相手はそんなこと、ぜーんぶわかってやってんだよ。……っていうか、自分にもそういうこと、あったんじゃなかったか。突然記憶がよみがえって、体がこわばる。何も、こういうときに思い出さなくてもいいものを。
病院の救急センターに着いて、案内された処置室には、横たわる父の側に母がいて、目をやったモニターの表示はフラットになっていた。「さっきまで息をしていた」「頑張ったね、と言ったら手を握り返した」と母は言った。間に合わなかった。しばらくすると医師が入ってきて、しかるべき手順を踏んだ後、ご臨終ですと言って、深々と頭を下げた。わたしが着くのを待っていてくれたのだろう、その若い医師の配慮が染みた。
数日前、父が入所していた介護施設から、血圧が低いという連絡は受けていた。そうとはいっても、出された食事は完食、話も出来る、しばらく様子を見ていきましょう、ということだった。血圧が低いというのはこういうことだったのか、と、今になってわかる。
控え室に案内されて、これからすべきことの説明を受ける。家族ではなく「遺族」として。遺体の搬送と、葬儀の準備と、あと、それからそれから。
その後の手配は遺族の仕事。スマホで検索するが、今欲しい情報にはなかなかたどり着けない。性被害にあった人が、どうしたらいいのかを検索したら、一番に出てくるのが加害者向けの弁護士広告で、痴漢ネタのエロページや冤罪ブログが続き、絶望したという話を思い出す。必要なのはこんな情報じゃない。スマホを放り投げて、公衆電話ボックスに駆け込んだ。電話帳をめくって葬儀社を探す。アナログ極まりない電話帳が、こんなに使い勝手がいいなんて。
死亡診断書を受け取って、遺体を車に乗せると、医師と看護師が出口まで見送りに来てくれた。空が、白み始めていた。
葬儀は、しきたりとやらとの闘いだった。いや、別に闘う必要はないのだろうけれど、家とか血とか生まれ順とか性別とか、ジェンダー研究を生業とする身には、いちいち引っかかってしまう。
霊柩車に棺を運ぶのは男の仕事らしかった。「ご長女様」のわたしは、蚊帳の外だ。後で、「男手」の一人だった夫に、運び手を男に限定しなければならないほど棺は重いものなのかと聞いたなら、一言、軽かった、と言った。儀礼的なものなんだろうね、とも。そして、「本当は自分も担ぎたかったんでしょう?」と、わたしの心中を察してくれた。ジェンダー規範に抗うことが目的なのではない。ただ、わたしも棺を担ぎたかった。それだけなのだ。
病院から自宅に戻った父(の、遺体)を葬儀場に移動する時には、わたしも手伝ったのだが、拍子抜けするほど軽かった。6月に2度、介護施設からの一時帰宅をした時には、トイレで眠りこけたり、駄々をこねて床に寝転がったりする父を起こすのに、相当手こずった。なのに、動かなくなった父の体はこんなにも軽い。「男手」なんてなくっても、軽々と運べてしまうほどに。
通夜の日も告別式の日も、よく晴れていた。
思えば、わたしが何を研究しているのか、父に話したことがなかった。研究室という言葉を聞いて、「何の実験してるんや?」というくらい、研究=理系という発想しかなかった人だ。
昭和ヒトケタ生まれ。わたしがジェンダー問題に取り組むようになった理由の一つに、父親の存在があることは間違いない。「男らしさ」が、周囲の人にとっても本人にとってもやっかいなものだと身をもって示した人だった。棺の中に、わたしの書いた本を入れればよかったな、と、後になって思った。