新型コロナウイルス感染者の増加が止まらない。検査の拡充や医療体制の整備、有効な封じ込め対策がとられないまま、じわじわ感染者が増えているのを見て見ぬふりして、GoToトラベルキャンペーンとか言いだせば、感染者は増えるに決まっている、と素人のわたしは思う。さすがに東京の感染者の急増は見て見ぬふりができないらしく、東京発着はキャンペーンから除外だとか直前になって言い出したりして、ああもう、何がなんやら。そんなこんなで、7月29日に発表された全国の新型コロナ新規感染者数は1000人を優に超えた。京都もこの日、新規感染者数は、過去最高の41人だと報告された。
日々の通勤や買い物時に、定点観測のように人出の変動を感じている。この春は、例年なら平日でも観光客であふれる時期なのにと、閑散とした四条河原町を何とも言えない気持ちで歩いていた。それが、7月の四連休、京都のマチナカはかなりの人出だった。もっとも、祇園祭の山鉾巡行が中止された今年は、人が多いといっても、例年のにぎわいとは比べものにならない。それでも、感染者が増えている時期にこれはまずいんじゃないかと、用だけすませて早々に帰宅した。
わたしの父親は今、病院に入院中だ。タイミングの悪いことに、介護施設に入所直後に、新型コロナウイルス感染防止のために面会が禁止され、タブレット越しの数分間のテレビ電話形式になった。認知症のため、家族のこともほとんどわからなくなっていたところに、この面会禁止が重なった。さらに悪いことに、施設で足を骨折し、2カ月以上の入院。ここでも面会は禁止。ようやく退院して、一時帰宅を経て介護施設に戻ったところ、肺炎を発症して入院し、今に至っている。
入所前にすでに認知症の症状は進行していたけれど、わたしが娘だとわかる瞬間はあった。しかし、2カ月の入院生活の後に一時帰宅をした時には、もう一人では歩けず、そして、わたしが誰だかまったくわからなくなっていた。わたしはその時々で、トイレや食事の介助をする人だったり、今度一緒においしいご飯を食べに行こうと約束をした見知らぬべっぴんさん(!)だったり、会社に借金の取り立てに来た人であったりした。夜中のトイレ介助の時、「お前、借金の取り立てに来たんか!」と、いきなり殴りかかられ、これは妄想なのだろうか、それとも本人の実際の体験の記憶だろうか、いずれにしても、この期に及んでこんな世界に住んでいるとはつらいことだろうと思いつつ、ケガだけはさせてはならないと、ボコられながら体を支えた。殴られても逃げないわたしに、「おまえ、根性あるやんか」と言ったのは、ほめ言葉だったのだろうか。後で見ると、腕やら足やらあざだらけになっていて、高齢とはいっても攻撃力はあるもんだな、と思った。
現在入院している病院は、当然のごとく、家族であっても原則面会禁止だ。直接会って状態を確認したり、近寄って声を掛けることはできない。
先日、主治医との面談があった。一時はかなり状態が悪かったというが、肺炎については治療が功を奏して回復しつつあるという。ただ、ものを飲み込む嚥下機能が衰えていて、どこまで回復するかわからないということだった。そして、機能が戻らないときはどうしますかと聞かれたのだった。「もう、ずいぶんと高齢でいらっしゃるので」。考えてこなかったことではないけれど、実際に聞かれると、やはり、動揺した。
もし、面会が可能なら、頻繁に病室に行って、声をかけたり体に触れたりできただろう。それによって、少しは元気になるかもしれないし、食事時に一緒にいるだけでも、食べたいという意欲がわくかもしれない。あるいは、その様子を見て、家族は来るべきときのことを実感を持って考えることができるようになれたかもしれない。
京都で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性に対する嘱託殺人で医師が逮捕された。この事件を受けてだろう、「尊厳死」という言葉を目にすることが増えた。「どうしますか」と医師に問われているわたしには、今の「尊厳死」という言葉の使われ方が恐ろしくてたまらない。
日本維新の会は、尊厳死を考えるプロジェクトチームを設置すると発表した。ALS当事者でれいわ新選組の舩後議員が生きる権利についてコメントしたことに、維新の会の幹事長が「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じるようなコメントを出している。非常に残念だ」と語ったと報じられてもいる。当事者として生きる権利を主張することが、尊厳死の議論を封じ込めるものだとして批判される、その恐ろしさ。生きることそのものがないがしろにされていると、強い憤りを覚える。いのちを守り、生きたいという気持ちを支えられなくて、何が政治かと思う。
病床にある人、その人に会えずもどかしい思いでいる人たちが、たくさんいるのだと思う。本人に会えないままに、何らかの決断を下さなければならない状況に置かれた人たちも。
感染者の増加を伝えるニュースを苦々しい思いで見ながら、「どうしますか」という問いにむせそうになる。重すぎる問いを、わたしはうまく飲み込めないでいる。