日本の政治過程全てに女性がいない。
そう岩本先生が指摘されたのは1997年(『女のいない政治過程』女性学Vol.5)です。女性の国会議員がいないというだけでない、この国は行政、立法、司法、全ての過程に女性が不在なのです。女性の身体・人権に関わる政策、リプロダクティブヘルスアンドライツ、性暴力、ドメスティックバイオレンス、性搾取の問題が、女性のいない場、男性によって決められてました。
政治の場に女性が進出することは当然、求めていくべきことですが、一方で私たち自身が、この国の政策過程を理解し、フェミニストの視点で政治を学ぶ必要性を実感しています。
岩本美砂子先生による4回の連続講座「フェミニスト政治塾」を企画しました。皆様のご参加をお待ちしております。
■連続講座
・第一回:日本の政策過程
・第二回:リプロダクティブライツ政策
・第三回:ドメスティック・バイオレンス
・第四回:女性議員
■スケジュール(6月以外は、毎週第三木曜日午後7時からです)
・第一回2020.6.25(木曜日)午後7時〜午後9時
・第二回2020.716(木曜日)午後7時〜午後9時
・第三回2020.8.20(木曜日)午後7時〜午後9時
・第四回2020.9.17(木曜日)午後7時〜午後9時
※ご予約は以下のサイトでお願いします。
https://www.lpcyoyaku.com/event
※参加費:1000円(講義毎)
※講座はZOOM ウェビナーで行います。ご予約は講座毎にお願いします。
①日本の政策過程
日本の政策過程を理解するには、議会・官僚制・司法の三権分立だけでは不足だ。議会は与党と野党に分かれ、1955年から1時の例外を除き政権の座にあった自民党と行政官僚制の癒着を見なければならない。自民党には総務会という決定機関と政務調査会という審議機関がある。官僚は政務調査会部会と打ち合わせながら政策を作っていく。自民党の部会と総務会、官庁の事務次官会議を通った後は、政策は出来たも同然で、閣議は大臣たちによる法案への沈黙のサインの場と化していた。
小泉首相の頃から、こうしたボトムアップはトップダウンに変わった。官房長官を中心に官邸で政策が作られ、党や官庁の合意を取り付けて決定が進められる。小選挙区制と政党補助金とが、自民党内を集権化したのだ。さらに、官僚人事への締め付けも実現した。
ジェンダー関係の法律は、児童買春ポルノ規制法・ストーカー規制法・DV防止法・リベンジポルノ防止法など、議員立法が多い。これは、官僚のアンテナにかかりにくい政策を、女性議員を中心に議員連盟を作って推進したものであったりする。男性議員は、関心がなくてもひとたび法案として国会に出てくれば、女性票が怖いので賛成する。しかし議員立法をまとめるにもハードルが多い。政策過程がトップダウンに変わっても、候補者男女均等法のように議員立法ができている。政策能力とジェンダー感性を持つ女性議員を増やす必要は、ここにある。
最高裁判所の判事は内閣が任命する。他の裁判所の判事は、最高裁判所事務総局が牛耳っている。日本の裁判所は、行政に弱い。性暴力犯罪者が無罪になるのは、裁判官のジェンダーバイアスだけでなく、最高裁と内閣がそれを許しているからだ。司法と行政がまとめてかかってきても負けないような、マトモな性犯罪に関する法律を立法する必要がある。刑法を変えるには議員立法というわけには行かないので、法務省を動かすような女たちの力が必要である。
②リプロダクティブライツ政策
まず日本には、堕胎罪がある。女性のみを罰する差別的な法律だ。もちろん「産めよ殖やせよ」にも効いたが、明治の初めは、間引きなどの慣行が西洋に向けてカッコウ悪いから導入された。1920~30年代には産児制限運動もあったが、戦争への道の中で禁止された。1940年の「国民優生法」は、「劣った」子孫を産ませないためと、堕胎を厳しく取り締まるために導入された。
戦後、手のひらを返したように「優生保護法」で中絶が合法化された。非合法のままではヤバイ技術で命を落とすものがあったからだ。優生条項は強化され、戦前はなかった強制不妊手術も導入された。戦後は、少なく「優れた」人口での出直しが計られた。中絶に関するしばりは緩くなっていったが、配偶者の同意の必要は残った。1956年には116万件を記録した。健康保険の適用範囲外であり、記録は正しくない(もっと多かった)という批判もなされた。
1972年、宗教団体「生長の家」が、「経済的理由」を削り胎児条項をいれるという改正案を持ち込んだ。女性運動・医師会・障がい者運動が反対し、1974年胎児条項は衆議院で削られた。その後この法案は審議未了廃案となった。1982年、再び「経済的理由」の削除が問題となった。幅広い女性運動や障害のある女性たちも反対した。自民党が割れたことが決定的であり、女性議員の働きがあった。1990年、合成特殊出生率が1.57を記録し、少子化が大きな問題となるようになった。
1996年優生保護法から優生条項が削られ、名称が母体保護法となった。配偶者の同意は残っており、「胎児が母体外で生育しうる」とみなされる21週6日以降は、堕胎罪が適用される。1999年ようやく低容量ピルが認可された。男性用勃起不全治療薬バイアグラは半年で超速認可されたのに、9年棚ざらしだった。他にも女性が使える避妊や中絶の手段の認可が、遅れているし、保険適応外で高価だし、消費税もかかる。
2018年優生保護法により強制不妊手術を受けさせられた女性が、提訴した。議員立法で、1人320万円の一時金給付という不十分な法律が作られた。2019年の判決は、手術は違憲だったが、権利の消滅する除斥期間の20年を過ぎているので賠償なしというものだった。特に女性のリプロダクティブライツに関し、性教育を含め、日本は大変不十分である。
③ドメスティック・バイオレンス
日本では1980年代に問題になった「家庭内暴力」は、男児による母親への暴力だった。1995年北京世界女性会議のNGOトリビューンの3万人の出席者の内5000人は日本人だった。彼女たちは、夫による妻への暴力の問題を持ち帰り、ドメスティック・バイオレンスと呼んだ。東京都や内閣府の調査で被害者は5人に1人、命に関わる被害も5%あると知られ、社会問題化した。1998年に参議院に開設された共生社会調査会の女性議員たちが、法制化に乗り出した。議員たちは、保護命令という加害者を遠ざけ違反者を罰する制度を導入しようとしたが、法務省の手強い抵抗にあった。当初、接近禁止命令6ヶ月・退去命令2週間(現2ヶ月)という所で妥協しなければならなかった。
厚生省売春対策審議会は廃止され、総理府男女共同参画審議会が設置された。売春防止法に基づき各都道府県に設置されている婦人相談所は、配偶者暴力相談支援センターの機能を果たすことになった。売春防止法に基づき都道府県に設置する(必置ではない)とされている婦人保護施設は、被害者の保護が行えるようになった。婦人相談所滞在は通常2週間とされているが、ここを経ないと他施設で保護されない。スマホが使えない、外出禁止、他の収容者とのおしゃべり禁止など杓子定規な運営がなされており、特に若い世代が進んで入らない。また一定年齢以上の男児をつれて入所できないなど、窮屈さが問題となっており、民間委託に比重を移すべきではないかなどと提起されている。DV法は、DV被害者の人権保障という点から、まだ弱い法制度であるし、婦人相談所ではDV重視になったが故に、売春の可能性のある女性への対応がやりにくくなっている。
売春防止法は、公娼制をなくすという意味で重要だったが、単純売春を罰さないものの、第5条で勧誘したものを処罰する。所得を保障せずに多くの女性から収入源を取り上げたところに、問題があった。困難な問題に直面する女性を処罰するのでなく、新たに人権保障できる福祉的法制を作るべきである。それは、ドメスティック・バイオレンスから逃げようとする女性にも、安心できる暮らしを提供できるであろう。
④女性議員
戦後すぐの1946年、39人もの女性衆議院議員が誕生した。この記録は、2005年の小泉首相による郵政民営化をかけた「刺客選挙」まで破られなかった(現在46人)。憲法を改正した帝国議会でも、彼女たちは発言した。選挙制度の改変・期待の割りに新人で成果があがらなかったこと・衣装や学歴詐称や恋愛事件が取り沙汰されたこと・選挙で負けたくない男性が女性議員は無能だと宣伝したこと・乱闘事件などによって数が減り、「女は女同士」といった感情も薄れていった。
1952年から1956年にかけては社会党の神近市子や藤原道子を中心に、超党派の女性議員が、公娼制の廃止を目指し、売春処罰を導入しようとした。1953年に参議院に選ばれた市川房枝は、女性議員のまとめ役になった。女性議員からの攻勢と、汚い手を使ってまで立法化を阻止しようとした業者、売春婦の生活が保障されないと組合を作って反対した社会党右派の男性議員(除名された)などの力関係の中で、ザル法の売春防止法が内閣立法の形で成立した。1961年には、女性議員の手によって、酔っ払い防止法が成立した。
以降、女性議員の活躍としては、政治資金の不正を暴いた市川が目立つ程度で、新聞ダネにならなくなっていく。1960年代・70年代に革新自治体が成立した。革新知事・革新市長は全員男性で、女性有権者は男性よりも彼らに好意的だった。数少ない女性議員とは離れたところにいた女性市民が、自ら国政に関わろうとするのは1977年である。俵萌子や吉武輝子が、第2波フェミニズムの中から挑戦した。運動の育ちとともに、1975年の国際婦人年が、国政に女性が関わるというコンセプトをもたらした。1980年の女子差別撤廃条約批准のために、国籍法改正・雇用均等法導入・家庭科男女共修が必要となった。女性市民と女性議員は共闘してクリアしようとした。
土井たか子が社会党委員長となるのが1986年で、女性議員は注目の的となる。1989年・1990年の国政での「マドンナ・ブーム」は続かなかったが、自民党一党支配も1993年に崩れる。連立政治の中で男女共同参画社会基本法や介護保険法などができた。2001年の小泉ブームは、田中真紀子外相を使い捨てにした。2005年の刺客選挙で「小泉シスターズ」26人が当選したが、小泉は女性向け政策を展開しなかった。2009~20012年の民主党政権は、「小沢ガールズ」をリクルートしたが、小沢は彼女たちに「まず再選」を命じ、政策的なよりどころにしようとしなかった。
政権交代の際、安倍晋三は女性議員を多くリクルートしていない。しかし、「女性活躍」を掲げた。女性に働くことと子どもを産むことを期待しているが、それを可能にするインフラが不十分である。大臣や自民党3役に女性を抜擢したものの、力量があってピックアップされたとみなされない。信条が右派の安倍に近いか近寄った女性たちとみなされている。
【講師】岩本美砂子
三重大学人文学部教授
専門は女性学、政治学 京都大学法学部卒 名古屋大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学 名古屋大学法学部助手、三重大学人文学部講師、同准教授を経て現職。 一貫してジェンダーと政治を研究、土井たか子、小池百合子等女性政治家研究の第一人者。1997年に発表した「女のいない政治過程--日本の55年体制における政策決定を中心に」が再び脚光を浴びている。 編書に『ジェ ンダーと政治過程 』(日本政治学会,木鐸社,2010)、 訳書に『中絶と避妊の政治学 - 戦後日本のリプロダクション政策 』(青木書店 , 2008)な ど 。