「怒りは何も生まない」とか「そんなやり方じゃ人がついてこない」とか「分断がどうのこうの」と言って、怒れるフェミニストにいちゃもんをつけている人たちを見ていると、いやな気分になる。
以前参加した座談会で「怒りを受けいれられないのは社会の側が成熟していないから」と言った人がいた(これは、記事中では私の発言ということになっているけれど、ほんとうに言ったのは別の人だ。すごく大事な発言だから、きちんと訂正すればよかった。申し訳ない)。
ほんとうにそう思う。私にとって、忘れられない一言だ。
怒っている人を見ていると、なんとなく居心地が悪いような、不安な気持ちになることもわかる。でも、怒らなくてはいけないときに怒る、そういう正当な怒りもある。
怒りを否定する人たちに聞きたい。そういう人は社会の不正義を目にしたとき、あるいは自分が不当で理不尽な目にあったときに、ちゃんと怒ることができているのだろうか。
私なんて、ふと気がついたらあんまり怒ることができなくなっていたけど。
私だって「これはおかしい」と思うことはある。でも、腹の底から湧き上がってくるような怒りはあんまり感じていないんじゃないかということに、最近ふと気がついた。強い感情を抱いて、気持ちが動くということがあまりない。
何かを目にしたときにすぐに怒ることができる人の瞬発力のようなものを目の当たりにすると、なんとなく乗り遅れたような気持ちになる。
自分に直接降りかかってくる不利益ならば、目の前の相手に対して怒ることはできる。でも、世の中のことに対しては、何かもうどうしようもない距離をとってしまっているのか、麻痺しているのか、あきらめているのか、なかなか瞬間的に怒りを感じることができないように思う。
私のこういうところ、軽蔑されるだろうなと思う。
それでも先日まで、不正義に対しておかしいと思う心があるなら、そして行動している人たちを邪魔しないのならば、たとえ怒りや共感を感じなくてもいいのではないかと思っていた。自分の感情を無理に奮い立たせようとするのは不自然だし。
でも、なんというか、もう一回考え直してみると、怒りという自然な感情があんまりわき上がってこないのはやっぱりおかしいことだ。
ソラヤ・チェマリー(Soraya Chemaly)というアメリカの若い女性ジャーナリストがいる。
少し前に、いつものようにフランスのメディアをチェックしていたら、この人の著書『怒りは彼女にふさわしい─女たちの怒りのパワー』(Rage Becomes Her: The Power of Women's Anger、未邦訳)が「ハフポスト」フランス版で紹介されていた。2019年11月11日の「女たちが怒りを取り戻さなくてはならない理由」という記事だ。
記事はこんなふうに始まる。
「女の怒りはいまだに狂気と結びつけられ、ネガティブなものとみなされている。女たちは男とは違って、とても小さいころからこの感情をコントロールするようにしつけられる」
「怒り出すこと、怒っていること、怒りを理解し、受け入れ、引き受けること。女たちはこれらすべてをこれから学んでいかなくてはならない」
この記事を初めて読んだときは「へえ、おもしろいな」と思っただけで、あっさり流してしまった。けれど、いま私に必要なのはこれだ。
記事によれば、ネガティブな感情を抱いたとき、男性はそれを怒りで表現することが認められているけれど、女性はそうではないから悲しみで表現しがちなのだという。そして、悲しみが内向きの感情なのに対し、怒りは自分の声を届け、物事をひっくり返したいという外向きの気持ちなのだという。 #MeToo 運動やグレタ・トゥンベリが世界を動かすことができたのも、怒りのパワーが原動力なのだそうだ。たしかにそうだ。
記事によれば、怒りを我がものとするためには、ジェンダーと特定の感情を結びつけないこと、自意識を高めること、ノーと言ったり嫌われたりする勇気を持つこと、友人たちと怒りについて話すことなどが有効らしいので、ちょっと意識してみることにした。
あと、私の場合は社会性のなさも原因のような気がするから、少しずつでも小さなことに立ち止まって考えて敏感になるのが第一歩のような気もする。すごく当たり前のことだけど。
とにかく私はちゃんと怒りたい。
ところで、怒りに注目して、ひとつ発見したことがある。
いま私は、性暴力のサバイバーであり、セックスワーカーとして仕事をしていた時期もあるフランスのフェミニスト作家ヴィルジニー・デパントのエッセイを翻訳している。
デパントは、ちょっと誤解を招くのではないかと思うような、悩ましい表現をよくする作家だ。そういう部分は、「これが訳した私の考えだと思われたら困るな」と思いながら訳している。訳したいと思うほど好きな作家だけれど、100パーセント意見が一致しているというわけではない。
それでもやっぱり私はデパントが好きだから、どうしてだろうと考えてきた。思想に100パーセント共鳴できるわけではないのに不思議だった。作家ならではの言葉の力強さみたいなものにひかれているのかと自己分析してみたりした。
でも、怒りに注目してみたことで、デパントの言葉の強さや彼女の特徴とされる暴力描写は、実は表面的なことにすぎなくて、私が好きなのはそれらを通して表現される彼女の怒りなのだということに気がついた。
私が十分に感じ取ったり、表現したりしきれないでいる怒りをとてもストレートに書いてくれるから、デパントに惹きつけられるのだと思う。
このことが理解できて、私も腹をくくったというか、とにかくこの怒りを日本語で届けなくてはだめだと思うようになった。なんとなく訳文が淡々としていたのも、怒りに焦点が合っていなかったからだ。
怒りに鈍感すぎて、いままで気がついていなかった。