今度、「フェミ的感性で読む児童書」みたいな読書会をするので、『アリーテ姫の冒険』を30年以上ぶりに読み返したら、子どものころ母に読み聞かせてもらったときに感じたことをありありと思い出したので、忘れないうちに書き留めることにした。
12万部売れた「賢いお姫様の物語」
『アリーテ姫の冒険』は1989年に学陽書房から翻訳出版された、イギリスの児童書だ。内容を一言で言うと、絵を描いたり、読書をしたり、文章を書いたりするのが好きな賢いお姫さまが、自分自身の力で困難を乗り越えていく冒険譚である。「美しいお姫さまが美貌ゆえに王子さまに見出され、窮地を救われ、結婚してハッピーエンド」式の童話へのアンチテーゼとして書かれたフェミニスト児童書だ。
当時、相当話題になっていたらしく、12万部以上売れたそうだ。フェミニストである私の母は、書評か何かを見て発売後すぐに買い求めたと言っていた。
1989年といえば、私は小学校に上がるか上がらないかという年齢だけど、この物語を読み聞かせてもらったのは、記憶の中ではもっとずっと小さいころのような気がしていた。というのは、その当時、全然お話が理解できなかった記憶があるからだ。
再読する前の私の記憶では、『アリーテ姫の冒険』の印象は「変わったお姫さまが出てくる変わった物語」という漠然としたもので、結末も覚えていなかった。フェミニズムの児童書だったというもの、だいぶあとになって母から聞いて知った。
でも、今回読み直してみたら、以外にも記憶が蘇ってきて、この話のフェミニスト的なところが、私はあんまり好きではなかったことを思い出した。私はアリーテ姫の賢くて自立したところに抵抗を覚えていたのだ。自立したお姫さまの行動に対して「待っていたほうが楽なのに」というようなことを言葉にできないまま感じていた。
子どもは保守的
以前訳した『禁断の果実』の作者リーヴ・ストロームクヴィストの作品に『I’m Every Woman』(未邦訳)という作品がある。その中に、「子どもたちは超保守主義者だ」という短編漫画がある。
それはだいたい、こんなような内容の話だ。
子どもは父親と母親がそろった核家族が大好きで、専業主婦推進派。具象芸術しか理解できず、アヴァンギャルドな作品は嫌い。王さまやお姫さまといった上流階級が大好き。だから、子どもを持つということは、「超保守主義ポピュリスト政党のリーダーにご飯を用意してあげて、その人をかわいがってあげて、ときにはベッドも共にするようなもの」だという。
この作品の真意は私にはちょっと測りかねるけれど、たぶんストロームクヴィストの子育ての苦労を皮肉っぽく綴った作品なのだろう。あるいは、保守主義者を「子どもみたいだ」と言って揶揄する狙いもあるのかもしれない。
彼女は子どもが保守的な理由を作品中では説明していないけれど、「その方が子どもにとって都合がいいから」、そして「子どもは人生経験がまだ浅いから」保守的なのだという含みはなんとなく読み取れる。
たとえば、母親がいつでもすぐそばにいてくれたほうが自分のニーズがすぐに満たされて都合がいいだろうし、両親揃っていればより愛情がもらえそうだ。アヴァンギャルドな芸術はある程度の知識や鑑賞経験がないと理解できないかもしれないが、具象芸術は「きれい・きれいじゃない」で子どもでも感覚的に理解できるかもしれない。
あとは、ジェンダーのせいで壁にぶつかった経験が、子どもによってはまだないというのも大きいだろう。外に出て働きたい母親の人生に思いを馳せるなんてことができるわけない。
そして、私もそういう子どもだったのだと思う。私は妹がふたりいるだけで男兄弟がいなかったので、身近なところで男女の扱いの違いを感じることがなかった。それに、人形だとかの女の子っぽい遊びも大好きで何も不便を感じていなかった。
そういう感性の子どもにとって、賢い『アリーテ姫』の物語は自分が脅かされるような物語だったのだ。「女の子でも待っていないで、自分で運命を切り開いていいんだよ。賢くていいんだよ」と言われてもピンとこないので、要領の悪い自分と比べて、ひたすら遠い存在に感じていたことを思い出した。
たとえば、つまらない男にチェスで完勝するシーンや、また別のつまらない男がマンスプレイニングをしてきたときに、もっと深い知識を見せてやりこめるシーンで、チェスもできなければそんな知識もない私はどうすればいいのだろう、というようなことを感じていたと思う。
きわめつけは、3つのお願いごとだ。アリーテ姫はいい魔女から、3回だけ願いごとをかなえてくれる魔法の指輪をもらうのだけど、その指輪を、数々の窮地を抜け出すためには使わない。
その代わり、絵を描くための絵の具と筆、服を作るための針と糸と布地、物語を書くための紙とペンとインクをお願いする。こんな娯楽みたいなことにお願いを使っていいんだろうかと、子ども心にハラハラしていたことを思い出した。
だけど、今回はじめて大人の心で読み返してみて、このお願いごとの使い道がけっこう大切だったんじゃないかと気づいた。
まったく記憶にはなかったけれど、物語終盤、冒険が終わったあとにアリーテ姫が指輪をくれた魔女にあやまるシーンがある。
「ワイゼルさん、ごめんなさい。わたしはこの魔法の指輪を、あぶないことから逃げるためには使わなかったの」
それに対して魔女のワイゼルおばさんは、こんなふうに答える。
「それでいいんですよ。水晶の玉をとおして、わたしにはぜんぶ見えていましたよ。あなたにとって、いちばんつらくて危険なことは、何もすることがない”退屈”ということなんですものね。それでよかったのですよ」
ここへきてやっと、これはやっぱり私のために書かれた本だったのだと思った。結局、お願いごとは、自分にとって価値のあるものに勝手に使うのがいいのだ。私は以前結婚していた相手に、翻訳の仕事について最後まで理解してもらえなかったという深い傷があって、その古傷にこのパッセージはちょっと触れた。
母の感想
さて、この本を選び、私に読み聞かせてくれた母にも当時の感想を聞いてみた。
母の当時の印象は「賢く勇敢でなきゃいけないみたいな内容だった」「アリーテ姫の話し方が典型的な女の子口調で違和感があった(新版ではアリーテ姫の言葉づかいをあらためたようなので、そのあたりに引っかかった人は他にもいたのかもしれない)」「アリーテ姫を助ける召使いは最後までその地位にとどまっているところが気になった(あいまいな記憶に基づく感想です)」というもので、この本があまり気に入らなかったようだ。
いちおう読み直してもらったら、「ふつうにおもしろかった」と言っていたけれど。
「賢くなきゃいけないみたいだ」というところは、大人でもやっぱり気になっていたのかと私は少し安心した。
当時、娘にこれを読み聞かせていたお母さんたちや、読んでもらっていた私のような子どもたちが、今読み返してどう思うのかすごく聞いてみたい。
それから、『アリーテ姫』が復刊したときに私は「あの本だ」とすぐにわかった。母はこの本を「1回くらいしか読み聞かせていないし、最後まで読まなかったかもしれない」そうなので、それを考えると、「これが私のフェミの原点!」とは言えないけれど、やっぱり何かが心の中にとても強く残っていたのだと思う。
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今度、友人の新行内美和さんが訳した『ちいさなフェミニスト宣言:女の子らしさ、男の子らしさのその先へ』(現代書館)の読書会をするのですが、参加者それぞれが「自分にとって“これはジェンダー意識にふれる何かがあった”と感じる絵本や児童」を紹介することになったので、2018年の復刊から気になっていたけれど読めないでいた『アリーテ姫の冒険』を読み返してみました。
『ちいさなフェミニスト宣言:女の子らしさ、男の子らしさのその先へ』は、性別役割分担にとらわれる必要がないということを子どもたちにわかりやすく伝える絵本です。
ビビッドで印象的な切り絵のイラストを添えて、「こわい! って言うことはこわくない!」「そう言えるのは勇気があるってこと」などのスローガンのようなメッセージを見開きごとにひとつずつ載せています。
節分の鬼に怯える4歳の甥は、「こわいって言うのは勇気があるってことって書いてあるのがうれしかった」と言っていて、小さいなりにちゃんとわかっていました。
『アリーテ姫の冒険』が明らかに女の子へのメッセージだったのに対して、『ちいさなフェミニスト宣言』は男の子も対象としているところが、2020年らしいところなのかなと思います。
オレリア・ブラン『息子よ、フェミニストの男になりなさい!』(未邦訳)という本に、「第二波フェミニズムの女性たちは、娘たちが自立した自由な大人になるように育てることには真剣に取り組んだけれど、息子たちを性差別主義者にならないように育てることには手が回っていなかった」という趣旨の記述があったので、そんなことも考えました。
『ちいさなフェミニスト宣言』+フェミ系絵本・児童書の読書会は2月14日(金)19時〜、飯田橋あたりで開催します。毎回、10人ちょっとの人数で自由におしゃべりをしています。ご興味のある方は、相川千尋のツイッターアカウント(@Chichisoze)までお問い合わせください。