12月18日、伊藤詩織さんの民事裁判の判決があった。詩織さんの勝訴。詩織さんの主張が認められてよかった。本当によかった。
と、喜んでいたところに、山口氏の記者会見の発言を知った。いろんなところで話題になっているから、知っている人も多いと思う。山口氏は言う。
本当に性被害に遭った方は、伊藤さんが本当のことを言っていない、それからたとえば、こういう記者会見の場で笑ったり、上を見たり、テレビに出演してあのような表情をすることは絶対にないと証言して下さったんですね。
メディアで目にする詩織さんは、物怖じせず毅然とした態度で語り、時に笑顔も見せる。山口氏は、本当に性被害に遭った人にはそんなことが出来るはずがない、だから、それが出来る詩織さんは性被害になんて遭っていないのだと、別の被害者の言葉を借りて言ったのだった。
加害者とされた側が、あるべき被害者像を語る。ある人に対して、あなたは被害者なんかではない、と言うために。自分の行為は性加害ではない、と言うために。自分は加害者ではない、と言うために。
わき上がる怒りとともに、ああこれ、覚えがある、とも思う。
長崎事件をご存じの方はいるだろうか。長崎満氏。痴漢冤罪が社会問題となった頃、痴漢冤罪被害者だとして実名で痴漢冤罪の問題を世に問い、被害者ネットワークを立ち上げ代表となった人。長崎事件とは、元になった「痴漢冤罪」事件のことを言う。最高裁まで争ったものの、罰金5万円の有罪が確定した(「毎日新聞」2002.9.28 28面)。ネット上では、長崎氏が無罪を勝ち取ったとする情報があるが、それは誤りで、本人の痴漢事件では有罪が確定している。その長崎氏は、2003年に、電車の中の盗撮行為で現行犯逮捕され、懲役6月執行猶予4年の有罪判決が言い渡された(「毎日新聞」2004.2.4 26面)。
盗撮事件が起こる前、長崎事件弁護団の弁護士が、「当たり前の女性の感覚を男性裁判官にも理解してもらうために」との目的でアンケートを実施し、その結果をまとめている(小口千惠子・浜田薫「痴漢被害体験者アンケートが語る冤罪の構造」『季刊刑事弁護』2002 31号)。そこには、長崎事件の被害者についても言及されていた。
自称被害者(引用者注:長崎事件の痴漢被害者のこと)は、10分間の長きにわたり(途中3駅に停車し、そのうちの1駅では急行の通過待ちをしている)、自分の前面にスカートをまくり上げる手を感じていたと述べながら、痴漢をしている手を見ようともせず、避けようと体を動かすこともしなかった。さらに自称被害者は、その感触と被告人の印象から被告人を痴漢犯人だと特定したと述べるのである。また、10分間何も回避行動をとらずにいたという自称被害者が、気の弱い臆病な女性だったかといえば正反対で、彼女は下車間際に被告人のネクタイを掴み、ありったけの啖呵を切っている。
この供述を聞いた全ての女性は「ありえない」と感想を漏らすだろう。(P85)
事件の真偽は置いておこう。ここでは、被害に遭って10分間も何もしなかったのに、下車時に犯人に果敢に立ち向かったことが、痴漢被害者としてあり得ないとされ、その人は被害者ではない、その人は嘘を言っていると、暗に述べられている。「この供述を聞いた全ての女性」とやらが勝手に想定されて、その女性たちの口を借りて、「当たり前の女性の感覚」とやらが語られる。
詩織さんも、著書『Black Box』(2017 文藝春秋)の中で自身の痴漢被害経験を書いている。10代半ばの時、急行電車の中で痴漢に遭い、次の駅に到着するまでの長い間男に触られ続けて、駅に着くと
プラットフォームに飛び降りてドアの方を振り返り、
「この人痴漢です! 変態クソじじい、ふざけんな」
と叫び、猛ダッシュで泣きながら帰った。 (P241)
のだという。ありありとその様子が想像出来る。わかるよわかるよ、と思う。被害に気づいてすぐにやめろと言えなかったからこその罵倒、恐怖や悔しさが吹き出した罵倒だよね、と。長崎事件の弁護団によれば、これもまた「ありえない」ということになるのだろうか。
もし、わたしが長崎事件の被害者供述を聞いたなら、あるあるあるある!! と、感想を大声で漏らしまくり、手元にクイズ番組のアンサーボタンのようなものがあれば、壊れるほどに全力で乱打しまくるのにと思う。っていうか、それ、ほとんどわたしだから。
11月に出た『痴漢とはなにか 被害と冤罪をめぐる社会学』(エトセトラブックス)の「おわりに」に書いたことだけれど、ある時、まさに、痴漢被害に遭って10分間も何もしなかったのに、下車時に犯人に果敢に立ち向かったということがあった。当時のわたしにとってはそれが精一杯の行動だったのだが、それもこの弁護団の人たちには、この自称被害者は(って、わたしのことね)嘘を言っている、被害になど遭っていないと判断されてしまうのだろう。
彼らの語る都合のいい被害者像。女に女を批判させる分断の戦略。そして、問われるのは、ここでも女なのだった。