清水ミチコのTwitterでその情報を知ったとき、これは行く気がする、と思って、先行発売のチケットを申し込んだとき、当たる気がする、と確信に近い気持ちになっていたら、当たったので行ってきました。
「PRIDE LIVE」(pridehouse.jp/livepride/)というチャリティーコンサートです。LGBTを応援するってことは私が応援されるということかしら、お金を払って? と無理解なまま会場に行って、主催者の説明を聞いてようやく腑に落ちました。セクシュアリティに悩む子供たちのシェルターを作るために企画されたとのこと。チケット1万円で5千人来場したそうです。作れそう!
ライブの感想はままあるのですが、ここではユーミンの発言を取り上げたいと思います。それは、
「支持層を固めに来ました!」
「ゲイの人たちのことを私は『ひろしくんたち』と呼んでいます。それは、舘ひろしと猫ひろしがいるから!」
という冒頭のかましの部分ではなくて、ライブ終盤で出演者たち全員とユーミンの曲を歌った後、
「私はLGBTって言葉が大嫌い。言葉で差別する側とされる側を分ける必要はないと思う。その昔、ウーマンリブという言葉がありました。それは死語になりました。そもそも女は強いからね。それと同じで、このLGBTという言葉も近い将来死語になると思います」
というようなことを言ったところでした。うろ覚えなので正確ではありません。
やだ、なんか醒めちゃった、と、周囲が総立ちのなか私は腰を下ろしました。
それは遥か地平を指す言葉、オーバーザレインボー、ザッツライト。「私たち」はそこを目指している、と。
かつて小西康陽が「レズビアン・ゲイパレード」のパンフレットに「こうしたパレードがなくなる未来を目指して」みたいなコメントを寄せていたことを同時に思い出しました。
わかるけどよ~、それいま言う必要ある? と私は興ざめしてしまったわけです。差別や偏見を可視化するためにあえてそのカテゴライズを引き受けている人たちを支援するイベントで、でもそのカテゴリーって本当は必要ないよね、と言っちゃうのって野暮じゃない?
ウーマンリブという言葉も出てきたのでついでに例えると、女と言う属性で苦しんでいる人に向かって、「でもさ~男も女も関係なくない?」と言ってしまう無神経さ、相手への無関心の暴露、みたいな。
5千人の観客の内、ユーミンのファンが4千人いるとして(適当)、彼女の芸術から正しくそのメーセージを受け取っている方々にとっては、こうした感想こそ野暮の極みになるのでしょうが、あいにく私はそれほどのファンでもないから言えちゃう、ということもあります。
かつてこのコラムで、椎名林檎の「ヒノマルニッポン旭日旗」の使用について、ファンだったからこそ擁護してしまった黒歴史を持つ私が言うのも僭越ですが。
ノンケのスナックで飲んでいると、私のことをゲイだと知っているおじさん客たちから、はるな愛とマツコ・デラックスの違いについて質問を受けたり、「ところでアナルセックスはしてるの?」と言われたりします。
それについて朗らかに解説したり、「私の場合は」と前置きして自分語りをしたりして場を盛り上げようとはしますが、それはエンタメというより調整です。
ただ、差別というものは、当事者によるこうした日々の調整がないとなくならないものなのです。と思っています。
そこにいきなり、ぼいーんと修行僧が到達した悟りみたいなものを提示されても、煙に巻かれた感だけ残って、相手方の差別意識も温存されるものだと思われます。
美輪さんが悪いと言っているわけではありません。
ノンケのおじさんたちと飲んでいて面白いのか、という疑問もあるかと思われますが、いろんな経験をしてきたおじさんたちは、ジェンダーバイアスが取れかかっていたり、たくさん穴があいていたりすることが多いので、そこをベースに会話を進めると却って面白いことになっていく場合もあって、それは悪くないものです。
大阪に帰ってきてから、逆にゲイバーになじめなくなってしまった自分もいます。今や、東京から来るゲイの友人に連れて行ってもらうくらいです。
何でそうなってしまったのかよくわかりませんが、出会いがないことだけは確かです。
人を見るときに、その人が抱えているジェンダーを取っ払ったところで話をしたい、という欲望は強いのですが、対ゲイ男性の場合はそのジェンダーを取っ払ってしまうと色気がなくなってしまうので、それもどうかと逡巡してしまうのかもしれません。まあ、相手が私に色気を求めているかどうかはまた別の話ですが。捕らぬ狸の皮算用…、タイトルと違う諺になってしまいました。