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“セクシュアルハラスメント”を流行語にした女たち インタビュー「働くことと性差別を考える 三多摩の会」丹羽雅代さん・野村羊子さん:前編

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 性被害を的確に捉え、問題を明るみにする上で、無くてはならない「セクシュアルハラスメント」という言葉。セクシュアルハラスメントという言葉を私たちが獲得する以前は、私たちが抱えている困難を表すことさえ難しいものでした。
 セクシュアルハラスメントという言葉が、日本で一般的に広く知られるようになったのは1980年代のこと。ちょうど、男女雇用機会均等法が成立し、バブル絶頂に向かって「女性の時代」などということが軽々しく言われていた時代。しかし当時、女性たちは非常に厳しい働く日常を生きていました。
 そんな状況を塗り替えていくために、セクシュアルハラスメントという言葉を広め、流行語大賞にした、女性たちによる大きな運動があったことをご存知でしょうか?
 働く女たちが「セクシュアルハラスメント」という言葉に出会い、どのように広めていったのか。どんな思いで道を拓こうとしていたのか。
 運動の中心にいた「働くことと性差別を考える 三多摩の会」メンバーの丹羽雅代さん、野村羊子さんにお話を伺いました!


 

■三多摩の会の活動が大きく知られるようになったきっかけは?


北原:私が初めて三多摩の会を知ったのは「西船橋事件」を調べているときでした。1986年に起きた西船橋事件は、JR西船橋駅で、当時高校教員だった男性が、酔っぱらって道行く見ず知らずの女性につきまとい、大きな声を出したことに端を発しています。

丹羽:被害を受けた女性は、背が高くて、かっこいい雰囲気だった。それで男性が、「どうせ水商売だろう」と言って、しつこく絡んだんです。

北原:女性につきまとって、西船橋駅まで男性がついてきたため「やめてください」と言ったところ、男性がはずみでホームから転落。運悪く、入ってきた電車に轢かれて亡くなり、女性は傷害致死罪で逮捕されてしまいました。
 当時のメディアでは、男性が教員で、女性がストリップダンサーだったことを引き合いに、上手にあしらえなかった女性の「過剰防衛」という論調で書きたてられました。
 事件のあった80年代当時の世論は、男性側の目線で語られることが多かった。時代的な背景でいうと、1986年はちょうど男女雇用機会均等法が施行された年ですね。

丹羽:亡くなった高校教員は、すごく重たいショルダーバックを掛けていたんです。そのカバンの重さでよろめいて勝手に落ちた・・・と私たちは思っています。

北原:駅や路上で酔っ払いに絡まれるような被害は、多くの女性が経験しています。そういうときに「やめてください」ということが、これでは、罪になってしまう。

丹羽:まず、「やめてください」というところから、お願いのかたちになっていますよね。

北原:そうなんです。「やめろ!」と言うと、エキセントリックな女とみなされてしまうから、お願い調でしか言いづらい現状は、昔から変わらずありますよね。丹羽さんはどのようにこの事件をご存知になったのでしょうか?

丹羽:新聞で事件を知った三多摩の会のメンバーが、みんなに傍聴へ行こうと呼びかけたんです。

■「三多摩の会」結成の経緯

北原:そのときすでに三多摩の会は結成されていたんですね。そもそも、三多摩の会が集まったのはどういう経緯なんですか?

丹羽:立川にあった東京都立多摩社会教育会館(平成28年12月27日閉館)を、当時よく利用していて、ミニコミを置いていたりしたんです。そうこうしてるうち、興味を持った職員から、三多摩に住んでる女性たちに呼びかけて集まったらどうかと提案されたんです。しかも、三多摩の公民館で活動するグループに、代わりに呼びかけまでしてくれるという。
 それで、私を含めた4人の女性が呼びかけ人となって、集会を開催しました。集会当日は、ものすごい人数の女性が集まって、自己紹介だけで終わってしまったくらいでした。

北原:初回はテーマを設定せず集まったんですか?

20180315_s01.jpg丹羽:はい。初回は、とにかく女性たちが集まることを目的にしたんです。2回目以降は、当時問題になっていた「優生保護法改悪」に取り組むことにしました。現在の日本では、一応、ほとんど自由に中絶をすることが出来ます。しかし、1982年当時は、「中絶の禁止」を法で進めようとした流れがあったんです。

北原:それで、優生保護法反対運動をされたんですか?

丹羽:そうです。各市区町村から意見書を提出したり、学習会を各地で開催したり。こうした地道な取り組みが、優生保護法反対運動では、実にうまくいきました。メンバーの中には障害者の女性もいましたが、この法案は、障害がある人は中絶出来て、場合によっては、本人は子どもを産みたいと思っていても勝手に中絶されてしまうこともあった。本当に酷い話です。いま、この問題で裁判を起こすひとが出てきていますけどね。 それで、運動の結果、優生保護法を阻止することが出来たんです。女の人たちが、勝利して、ストップさせた。

北原:優生保護法反対運動を起点にネットワークが少しずつ出来はじめたわけですね。1985年になると、丹羽さんたちは、男女雇用機会均等法に対し意義の声をあげます。丹羽さんは、ご自身が教員だった立場から反対の声を上げられたそうですが、なぜだったのでしょうか?

丹羽:私たちは元々、「雇用平等法を作らせよう」という運動をしていたんです。ところが、勝手に男女雇用機会均等法の案が出てきたんですよね。

北原:勝手だったんですね(笑)

丹羽:勝手ですよ。私たち女性の意見なんて、何も聞いてないですから。この法案は、女性を非常勤や非正規で雇うことや賃金について、企業に対して何も禁止していませんでした。非正規雇用自体が、悪いことだとは思いません。でも、非正規だと賃金が正規雇用の半分以下という実状がある。こういうことがOKになる法律は、絶対におかしい。
 当時から非正規雇用は圧倒的に女性が多く、この法律では、女性の経済問題を変えていく力にはなっていませんでした。こんなの「平等法」じゃない。

■「彼女は私だったかもしれない」~西船橋事件と裁判支援~〜

北原:このような運動をしているときに、先の西船橋事件が起きたんですね。それで、傍聴にいった。

丹羽:三多摩の会のメンバーが西船橋事件の裁判を傍聴しにいったら、その内容があまりに酷かったと言っていたんです。

北原:どんな裁判だったんですか?

丹羽:被告人の女性がしたことは、殺人に繋がる酷いことだという断罪ばかりでした。たしかに、人が1人亡くなっています。でも、彼女は決してわざとやったわけではありません。それに、周囲で目撃していた人たちは、女性が助けを求めてもみんなヘラヘラ笑って知らん顔してたんです。

北原:夜11時くらいの当時の西船橋駅だと、サラリーマンの男性ばかりというような状況ですよね。

丹羽:そういう状況で、女性がどうしようもなくなって、しつこく寄ってくる男性に「やめてください」と制したら、男性は自分が下げていたショルダーバックの重みもあってバランスを崩してしまった。
 ホームから男性が転落したときは、さすがに周囲も騒ぎになったそうですが、当人は酩酊していて逃げることが出来なかったというわけです。この男性を、被害者男性というべきか、加害者男性というべきか……難しいのですが。

北原:女性に対しての「やりすぎ」という検察の主張に、世論が合わさるかたちで裁判が進んでいたと聞きます。

丹羽:女性にとって不利な状況でしたね。それで、これは大変な事件だと思ってみんなで声をあげたり、集会をやったり、学習会をやったり、いろんなことをやったんです。
「彼女は私だったかもしれない」とみんな思うでしょう?この、「彼女は私だったかもしれない」という思いが、今も続く女の運動のスタート地点なんですよ。

北原:丹羽さんたちの運動で世論を変えていったわけですね。

丹羽:その頃から女性の新聞記者が活躍しはじめていたのですが、彼女たちがこの事件を理解してくれたことで、報道姿勢も次第に変わりましたね。

北原:世論が大きく変わった結果、被告の女性は無罪になった。当初は、傷害致死事件として何らかの刑がつくであろうと目されていましたが、女の人たちが声をあげることによって流れを変えました。

丹羽:これは、ものすごく大きな勝利体験でしたね。優生保護法に続いて、私たち運動の2回目の勝利です。そして、次に起きたのが「池袋事件」です。

■2回目の運動の勝利と「池袋買春男性死亡事件」

北原:西船橋事件の翌年、1987年に起きた事件ですね。大企業に勤める男性が、「ホテトル」(いまでいうデリヘル)の女性を池袋のホテルに呼び、SMプレイを求めた。しかし、あまりに度が過ぎる要求で、女性をビデオで撮影する、ナイフで脅す、汚い言葉で怒鳴るなど、女性に恐怖を味合わせ続けたんです。隙を見た女性が男性からナイフを奪い、命の危険を感じて男性を刺してしまった。

丹羽:女性の方も、男性から何か所もケガを負わされていたんです。彼女だってひとつ間違っていたら命を失っていたかもしれません。

北原:この裁判は一審から傍聴されていたんですか?

丹羽:はい。ただ一審のときは、水商売をしている女性を親身になって味方できるのか、三多摩の会のなかでも議論している最中で、裁判支援はしませんでした。
 当時報道では、「ビデオが全部見ていた」とか、センセーショナルに書かれていましたね。一審はあっさり女性が敗訴してしまいました。

北原:一審判決が出るまでは、大きく注目されている事件ではなかったんですよね。それで、実刑5年の有罪判決が出た。「売春をしている女性には死のリスクがあるから、普通の女性と同じ量刑にはできない」という理由で、女性の過剰防衛とみなされました。
 傍聴した方のお話を聞いたのですが、判決の日に、傍聴席で泣いている、亡くなった男性の妻を見かけたそうです。妻と被告女性との間に挟まれながら、これは女性差別の問題ではないのか、女が置かれている状況がここに表れているのではないかーーすごく突きつけられたと仰っていました。そのような女性たちの思いから、独自に有志の裁判支援がはじまったんですね。

丹羽:池袋事件を考えるという会ができて、角田由紀子弁護士さんが関わりました。
北原:「性的な自由とは、性的な主体とは何か」が法廷で語られた非常に重要な裁判でした。「女性がお金で買われている時間は客のもの」という男性たちの論理に、女性たちはどのうな仕事であれ性的な主体性は守られるべきだとした。
 「池袋ホテトル嬢殺人事件」と呼ばれていたのも、池袋事件を考える女性たちが「池袋買春男性死亡事件」と、全くちがう名前に変えていきました。名前を呼び変えることで、事件そのものの本質を浮き彫りにしたんですね。

丹羽:当時、「池袋事件を考える会」では、絶対に「彼女が殺した」という言葉は使っていませんでした。殺そうと思って殺したわけではないですし、彼女が殺される可能性もあった。だから、「彼女は殺していない」というのが一番大きな主張でした。

北原:西船橋事件のように無罪にはならず、有罪判決にはなりましたが、3年間の執行猶予がついた。これは本当に大きなことでしたよね。

丹羽:現実にひとり男性が死んでいるという事実があるなかで、執行猶予がとれたというのは、よく頑張ったと思いますよ。

客席:「正当防衛」とは、見なされなかったんですか?

北原:「正当防衛でも過剰」というのが検察の主張でした。裁判官も酷くて、「風俗で働いている女性には、一般の婦女子と同じ価値観を当てはめられない」という判決を最終的に残しています。
 それでも、女性たちがここまで頑張って、「性的主体とは何か」と訴えた。性の仕事そのものに葛藤をしながら、女性の性的主体性は職業で限られるものではない、これは自分たちの問題である、と考えて闘っていったわけですよね。

丹羽:ええ。これは「池袋事件を考える会」の女性たちが頑張りましたが、三多摩の会の中では議論は尽きませんでした。三多摩の会の最初の頃は、公民館で活動している女性グループにかたっぱしから呼びかけたので、「茶道・華道友の会」みたいないろんな女性たちがいた。そういう人たちは、この活動あたりで離れていきましたね。それに、事件については正当防衛だと確信していましたが、私たちのなかでも、葛藤は大きかったです。

北原:どういうところに引っかかっていたのですか?

丹羽:それまでは、風俗で働いている女性との繋がりが全くなかったので、被告の女性が風俗という仕事を選んだことに対して、もっと違う仕事があるだろうということを思っていました。

北原:私が池袋買春男性死亡事件についての資料を読んだなかでは、丹羽さんの今のような発言されていた方は、むしろ少ないという印象でした。池袋事件を考える会の報告書には、風俗で働いてる大学生の女性も参加していて、それに対して、みんな戸惑い葛藤しながらも、自分たちと彼女たちを区別するのではなく、社会的な構造で起きる差別の話であるという風に議論されていました。

丹羽:風俗以外の選択をしていたら、命の危険に晒されずに済んだのではないかと、当時は思っていたんです。今は、そんな風に考えていません。現実に風俗で稼いでいる女性たちがいるのも事実だし、一方で、風俗でそこまで稼げないというのも事実。風俗で働くということに、誰も命なんて張っていなくて、ひとつの選択としてやっていることを今は知っています。

■「セクシュアルハラスメント」という言葉との出会い

北原:そういう活動をしながら、セクシュアルハラスメントについて書かれた本に、出会ったわけですね。

丹羽:三多摩の会のメンバーが、サンフランシスコにある女性のための本屋に立ち寄った際に見つけてきたんです。ペラペラの冊子でしたが、「セクシュアルハラスメント」という初めて出会う言葉で、全く知らなかった概念について書いてある。英語が堪能ではないながらも、どうもこれは重要そうだと感じましたね。

北原:「ハラスメント」という言葉が、当時は分かりませんよね。

野村:まず、日本語にどう訳すかというところから議論がはじまりました。

丹羽:最初は「性的嫌がらせ」と言っていたんです。でも、これは嫌がらせなんていう軽いレベルじゃないという話になり、セクシュアルハラスメントというそのままの言葉を流行らせないといけないと考えました。

北原:日本語では、当てはまる言葉がなかったということですよね。

野村:いじめという言葉にも近いですが、もっと崖っぷちに立たされている状態です。

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丹羽:アメリカ出身の友人にどう訳せばいいか相談したら、「嫌がらせなんて表現では本質を表せない、崖のはずれに立たされて後がない感覚がハラスメントだ」と言われたんです。

北原:セクシュアルハラスメントの本を読んで、これは自分も働いている女性として体験したことがあることだと、納得されたのですか?

丹羽:セクシュアルハラスメントの被害は沢山ありましたが、三多摩の会のメンバーは、それを「凌いで」生き抜いてきた人たちが多かったんです。
 自分たちはそれなりにちゃんと働いてきた感覚を持っていたからこそ、セクシュアルハラスメントは「凌ぐしかない」と思い込んでいたんですよね。しかし、やっぱり、他にやりようがあるのではないかという気持ちも持っていました。

北原:具体的なご自身の体験だと、どういうことがありましたか?

丹羽:性的な経験や、結婚しているのかどうか、子どもの有無について職場で聞かれることは普通にありました。当時、私は教員でしたが、ちょっと遅くまで残業していると、「このあと遊びにいこう」と性的な誘いを受けることも当たり前のようにありましたね。

北原:セクシュアルハラスメントの被害で、同じような思いをしている人が、他にもたくさんいるんじゃないかと考えた。そこで、セクシュアルハラスメントについてのアンケート調査を実施されたんですよね。

丹羽:アメリカから持ち帰ったセクシュアルハラスメントの本にも、アンケートは付いていたんです。でも、それをただ機械的に訳してもダメだと思った。私に響く、あなたに響く、そういう言葉を見つけ出さないといけない。それで、「1万人アンケート」を作ることを思い立ちました。

北原:かなり大がかかりなアンケートですよね。なんで1万人だったんですか?

丹羽:新聞に取材されたときに、咄嗟に「1万人から回収を目指します!」と宣言しちゃったんです(笑)
はっきりとした根拠はありませんでしたが、当時働いている女性が300万人くらいだったので、アンケートに答えてくれる人はざっと見積もって1万人くらいではないかと思ったんです。

北原:実際に、蓋をあけたら有効回答6,500人という反響だったのだから、本当にすごいことですよね。

(後編へ続く)



 このテキストは、2017年12月ラブピースクラブ主催のワークショップでお話いただいた内容をまとめました。

 ワークショップ告知はラブピ史上最多シェア数と反響が非常に大きく、年の瀬の繁忙期で来られなくて本当に残念!というお声も多くいただきました。フェミニズムの運動の歴史を、しかも勝利の歴史を、より多くのみなさまに知っていただきたい!そんな思いからカットするわけにもいかず、前後編に分けてお届けいたします。

 後半は、いよいよ、アンケートの取り組みや、日本で初めてセクシュアルハラスメントを争点にした「福岡セクシュアルハラスメント裁判」について、そして流行語大賞までの道のりをお伝えいたします。ぜひぜひ後半もご覧ください!(LPC編集部)

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