私は仕事を終えて帰宅する自宅は、結婚式を境に実家になった。
仕事中、例えば営業車で移動している時などに、話の流れで
「結婚式挙げたのに、まだ実家なのかぁ」
と言われる。
言ってくるのは支店長代理で、彼らは私たちのようなヒラの行員が大口先に営業に行く際、営業行為自体に箔をつけさせるために一緒に来るのだ。そして何か成約したりして実績があがると、「按分ね」と言って何割か持って行く。期ごとの行内の評価ルールによって、100の成約を私が80、代理が20といった形で山分けになることもあったし、私の100は減らずにダブルカウントで代理が20貰えることもあった。
同期のつばさちゃんは「これ絶対、代理を出世させるために私たちの実績をちょっとずつ持ってってるんだよ!」と憤慨していたし、私は「今度『帯同させてくれ』って言われたら『あっ、大丈夫です!』って言ってみようか」などと言った。言ってみるだけで、とても代理たちを前に言う勇気はない。
顧客との関係構築を頑張ったのは私で、成約まで持って行くのも私だ。
成約の日だけ同席する代理たちは、移動時間でお客様の情報を聞き出してしまうと、残りの時間はそういう雑談をして、「ドクター寂しがらない?」とか「新婚の旦那さんを放っておいていいのか~」とか「でも、実家のお母さんも寂しくなるよなぁ」とか、好きなことを好きなように言ってくるのだった。
だいたいのことは「そうですねぇ」とか「どうなんでしょう」とか適当な返事をしてやりすごすのだけれど、前半の二つに関しては「初夜のセックスもスルーされたって、こないだの飲み会で知れわたったでしょうがァ!」と言いたい気持ちを抑えて「ハハ」と笑っておいた。寂しいもクソもあるか、という気分だった。
母は、新居のこととなると一転して消極的だった。
結婚式の準備をしていた時とは打って変わって、何も言わない。ゼクシィをダイニングテーブルに堂々と積み上げていたときのように、リフォーム雑誌やインテリア雑誌を積み上げたりしない。恵美子さんから電話があった、という話も聞かない。恵美子さんのことだから、ひとりで物件を見に行き仮押さえして帰ってきたときのように着々と話を進めている筈だったが、母は何も言わなかった。
折に触れ、母が「ミナトちゃんもずーっと実家にいていいのよ。ねっ」と言われたことを思い出しては、しかしそうもいかないよなぁ、と思う。
そもそも物件は、お嬢さんの一喝により、山田仕郎が一括で購入することと決まっている。
当の本人は山田仕郎だ。
これが、もし仮にお花ちゃんが相手だったら、いつものように何気なく電話をして「どうなったの?」と聞けばいい。けれど、山田仕郎にはなにげなく連絡をすることができない。東日本大震災の時、山田仕郎に心配するメールを送ったら「不要不急のご連絡はご遠慮ください」と返信されてしまったことを根に持ち続けているのもそうだし、自宅の購入はきちんとした用事に思えたが、実際に同じ食卓について同じ空間を共有していても恵美子さんやお嬢さんがいないと会話のキャッチボールが成り立たないというのに、声だけでふたりしかいない通話などという状況で話をするのは無理だろう。
ただ、山田仕郎は駄目でも恵美子さんには気軽に電話できる。営業の電話をかけていた頃に比べたら、雑談の電話を装って進捗を確認することなんかめちゃくちゃにハードルが低いのだ。
かくして、私は平日の夕方や夜、何気ない感じで恵美子さんに電話をかけ、新居がどうなっているのかを聞いた。新居の購入は抜群の機動力を誇る恵美子さんと、山田仕郎の平日の休みを利用して物凄い速度で進んでいた。
銀行員の仕事のひとつとして、関連会社の不動産販売に連携をすることがあり、不動産選びから購入までのスピード感は何となく把握しているつもりだったが、予想をはるかに上回る速度だった。
恵美子さんは聞けばすべて教えてくれたが、そもそも山田仕郎に聞いたところでちゃんと状況を把握していたかどうかも怪しい。
「リフォームはどうするんですか」と恵美子さんに尋ねて「いくつかの会社に見積もりを出させてね、仕郎が『一番安いところがいい』って言うから、そこに決めたのよ」と返ってきた時には言葉を失ったが、受話器の向こう側でお嬢さんが「お兄ちゃんはしっかり者なのよォ!」と声を張り上げているのを聞いて、「安さだけで決めてよかったんですか?」と異議を唱えられるような状況にないことだけはよくわかった。
お嬢さんは大きな声を出せるような病状ではないのだが、多分、恵美子さんのよこにぴったりくっついて電話の音声を聞いているのだろう。
いつまで経っても山田仕郎と、恵美子さんを介してしまえばすべてどうにかなってしまうからなのかも知れない。いや、逆か。山田仕郎が「雑談をする意味がわからないので電話はしてこないでください」と言ったから、より一層恵美子さんに電話をしてしまうのかも知れない。
ふたつのことはがっちりと絡み合っている気がして、考えてもうまく結論が出てなかったし、そもそもどんなに考えたところで今の状態では何も変わりようがないのだった。
当日、待ち合わせ場所の物件に現れたリフォーム業者の男性は秀吉さんという名前だった。
苗字は高橋である。
秀吉氏はマンションのエントランスで「この度は弊社をお選びいただきましてありがとうございます」とお辞儀をしてくれたが、私は選んでいない。隣の山田仕郎が安さを決め手に選んだという話だったが、特に「私が選びました!」という顔はしていない。
秀吉氏の謝意が空中で雲散霧消してしまった気がして、私は「よろしくお願いしますね!」と微笑んだが、今からこの三人で打ち合わせなのかと思うと、まったく先が見えなかった。
先が見えなくても、与えられた材料で頑張るしかない。
私は、変にわくわくした気持ちで秀吉氏に導かれるままエレベーターに乗り込んだ。