父がラグビー新日鐵釜石の選手・監督だったと言うと、スゴいねと言われる。スゴいはスゴくても(どの偉業でもそうだと思うが)舞台裏の家族は大変だった。創部メンバーだった父の現役時代は筆者が生まれる前で、兄は釜石生まれだ。初の国体優勝と父の転勤、そして筆者が生まれたのがひと月間隔程で起きたお蔭で、筆者は世田谷杉並エリア育ちだ。釜石を去る際に父は市から表彰状をもらっていた。
昨年終わりに父が急死したのでお彼岸を兼ねて、母が見合い結婚後3年半新婚生活を(そして筆者を妊娠10ヶ月目まで)過ごした街を訪れた。鳥取市より小さく別海町より栄えている釜石市は、日本の全ての地方都市の縮図だった。漁業は乱獲と気候変動の結果減産、明治期の産業革命以来基幹産業だった製鉄は高炉の火を消して終了し、ラグビー部も廃部となった。(ちなみに内外にリスクを抱えた会社は、韓国での徴用工裁判ではいち早く賠償金を払っての和解を望んだが、官邸の強い指導に遭い一転争うことになったそうだ)。その後市民クラブチームが結成されたがトップリーグ所属ではない。
東日本大震災の津波では全国で20,000人近くの尊い命が奪われたが、その痕跡は今なお深刻で復興はおろか復旧も不可能と思われる程だった。来年完成の移設住宅を待って、昔は誰も住まなかった山の上の(リアス式海岸なので山が海に突き出ているのです)仮設住宅にまだ住んでいる方々もいらした。
創部時代、父は徹底して東北全県と北海道を巡り、地域に根ざした高校選手を発掘した。当時の日本には東北・北海道差別は確かにあって、大卒のスター選手は採れなかったのだ。鉄屋兼ラガーマンとして、皆でよく練習し、よく働き、よく食べ、よく飲んだ。体格の小さい父はアルコール使用障害が進行した。
父が採用した秋田工業高出身選手がその後スター選手に成長し、日本選手権V1、V2くらいまで副主将として部を牽引し、人望もあり見染められて地元の網元の家に婿養子入りした。
会社は鉱山側にあるが、網元は海岸沿いにある。震災では会社で一旦避難後、妻と義母を助けに家に行き、2度目の津波で3人共に死亡した。発見まで長いことかかった。父は、半世紀前に採らなかったらこういう最期を迎えなかったにと気に病んでいたが、死ぬ前に墓参りも果たし、遺族から幸せな人生だったと聴き多少安堵していた。
今日のドキュメンタリー「60万回のトライ」(2013)は、大阪朝高ラグビー部と家族の青春物語だ。今も自主上映が行われる機会があるので是非お勧めしたい。それにしても時代も背景も違うのに、ラグビーの苦労話はすごく似ているのに驚く。血と汗と涙があるのに、皆爽やかなのだ。
半世紀以上前、東京女子大英文科卒業後1年で蒸気汽車で釜石に着いたその日から、「子どもたち」(選手たち)の母親替わり兼食事の世話を毎日し続けたクリスチャンの母の姿が、映画内校庭で七輪の焼肉を仕切る若いオモニたちに重なる。