「なくそう、アボハラ」に参加してみました
2019.10.03
9月27日に京都で開催された "国際セーフアボーションデー記念トークイベント『なくそう、アボハラ』" に参加した。
わたしは、20年ほど前に大学院に入った頃のテーマが中絶問題で、結構みっちりと当時の議論を追っかけていた。修士論文は、強姦被害者の中絶問題について書いた。その後は、性暴力の問題を中心に考えるようになって、中絶問題から遠ざかっていた。
今回のトークイベントには、今はどんなふうに中絶問題についての議論が進んでいるのかを知りたいという興味もあって参加したのだった。結論から言うと――進んだどころか、あの頃と変わっていなかった!
世界では、中絶薬と吸引法がスタンダードだというのに、日本では現在も、中絶は掻爬(そうは)という術式で行われることがほとんどなのだそうだ。
中絶についての議論は、それこそ明治の頃から沢山されてきている(ここでいう「議論」とは、言い争いということではなく、発表された意見、くらいの意味)。中絶の「是非」を問うものや、胎児をいつから人とみなすのかというのや、誰にそれを決める権利があるのかなどなど。
20年ほど前に、生命倫理という学問分野が盛り上がっていた頃には、出生前診断や選択的中絶が問題になっていたこともあり(今もあるけれど)、中絶問題はホットなトピックスの一つだった。それでも、トークイベントで触れられたように、中絶について、女性の心身の健康や安全という視点からの研究や議論がこれまでなかったというのは、まさにその通りだと思う。中絶について多くの人が語っていたのに、必要なことが語られず、それを必要とする女性の現実が反映されてこなかった。
修士論文を書いていた時には、中絶について書かれた資料や文献を読んだり、当事者や医療者にインタビューをしたり、水子供養を謳っているお寺に行って、調査もした。今でも覚えているのが、ある医療者が、中絶手術について、胎児を掻き出そうとすると胎児は逃げるんです、それは胎児が生きようという意志、生きたいという意欲を持っているからなんです、と感情たっぷりに語っていたことだ。
わたしは中絶の場に立ち会ったことがないし、映像でも見たことがないので、想像するしかなかったのだが、科学的な判断に基づいて行動するはずの医療者が、胎児にも意志や意欲がある、と言ってしまえるとは、どういうことなんだろう、と思った。でも、それを言うのがはばかられるような雰囲気だった。
ある女性医師が、中絶は、そうせざるを得ない当事者女性の状況を考えることもつらいし、中絶をする自分自身もつらいので、できれば扱いたくないのだと言っていた。医師だってしんどいのだろう。でもそのつらさは、中絶を希望した女性の責任じゃない。それに、中絶薬の使用は、医療者も苦悩から解放するのではないだろうか。苦悩は、掻爬という術式に固執しているからくるのではないだろうか。
大学院の授業で、男子留学生が、海外では薬剤を皮下に埋め込む式の避妊法があり、女子学生もわりとカジュアルに利用しているという話をしたならば、その人も含めて何人かがあり得ないとばかりに首を横に振った、ということがあった。ちなみに、その、首を横に振ったのはみな男性である。
女性が主体的に避妊をするということが、性的に奔放であるということを意味し、そういう女性は道徳的に(?)よろしくない、ということらしかった。主体的な避妊方法を求める女性を、誰とでもヤル女のように(勝手に!)思い、そして、そんな女性を(一方的に!)さげすむのだ。
でもそれ、全部、言う側が、ってことは男性が想像しているだけですからね。
当の女性がどんな事情でどんな考えでいるかはおかまいなしに、貞操観念を押しつけているだけですから。
性暴力事件でよく問題になる「被害者資格」を思い出して、なんと似ていることかと思う。女性の体は、男性の一方的な幻想が投影される場ではない。
ゼミのテーマが中絶問題だったとき、安易な性交や中絶をさせないために、中絶手術のビデオを見せて、中絶とはこういうことなのだと、義務教育段階で教えたほうがいいと言う学生がいたことも思い出した。もちろん、それも男子学生。映像のインパクトによって恐怖を植えつけたら、性交しないようになるとでも言うのだろうか。まさか。
一方で、中絶せざるを得ない状況になった女性が、罪悪感でいっぱいになって、心身を病んでしまうであろうことは容易に想像がつく。そこには、その罪悪感で自らを焼け、一生苦しめとでも言わんばかりの、女性に罪の意識を埋め込みたいという意志すら感じる。そういえば、中絶をした女性は「死ぬほど苦しむべき」と言った男性研究者もいたなあ(と、遠い目)。
わたしの知る、性被害にあって中絶する結果となった女性は、被害に苦しみ、妊娠の事実に苦しみ、中絶をしたことに苦しんでいた。そして彼女は、「宗教」に救いを求めた。彼女は罰せられていると感じていた。彼女に罰を与えたのは誰なのだろう。