失語症というのは、語るものがない時と同じように、あまりにも語ることやそのイメージが多すぎて、いっぺんに外に出ようとして詰まってしまうときにも生じてしまうものであるらしい。この1カ月、あまりにいろんなことが起こったので、何から話せばいいのか、端緒を探しているうちに私は書くということができなくなってしまっていた。
前回、私は「好きかなあと思う人」ができたと書いた。その人とは最初、とある飲み会で一緒だったのだが、私は人の顔と名前を覚えるのがとても苦手なのと、別にそれほど会う機会もないかと思い、名前と顔のイメージがぼんやりとしていた。
ただ、その人が、その場で注文を取りまとめてくれて、服装に清潔感があり、ビールをガボガボと、しかし品良く飲んでいたのは覚えている。そんな様子なので、私は「この人はきっと既婚者だな」と思った。どことなく余裕が漂っているからだ。そのうち会話の中でどうやら一人暮らしらしいとはわかったが、彼女がいるかもしれないし、しかし私は友人Mに(できるだけ多くの)男性とご飯に行くことをタスクとして課せられた身であるので「じゃあ一回ご飯でも誘うか」とその場で頭によぎったかもしれない。が、日々の忙しさで完全にそんなことも忘れていた。
そのうち、もらったメールが迷惑フォルダに迷い込んでいたらしく、会社に連絡が来たので、飲みに行くことになり、その時にいろんなこれまでの話を聞いて、真面目だなあ、と感化され、前回のコラムの記述に至ったのである。
それから、いろいろとあって、向こうも私に好意を抱いていることがわかった。
しかし、私はその瞬間、そこから逃げ出さねばならないように感じたのである。
(相手はこのコラムを全部読んだらしく、「書きにくくなるから、もう読まないで!」と伝えたところ、「読まないということにしておく」との回答だった。その言葉を信じて書いている)
それは、私がこれまでの関係性の中で、自分のほうがずっと好きで相手からあまり大事にされない経験を積み重ねてきたので、未知の感覚が怖かったのと同時に、相手が自分を好いていてくれるからという理由で、すぐさま自分を全面的に肯定したり、理由もなく自信を持ったりするようになれば、それはよくないことだと思ったからだ。
私の、自分を大事にしたい気持ち、積み重ねてきた努力は、そんなに弱いものだったのか。そんなことはないはず。相手が大事にしてくれるからと、思い上がった状態へ容易に陥る可能性がある。そうは言っても、相手の好意やあたたかな言葉に反発し続けるのも間違いだと思う。
しかし、そこに安らぎを覚えている間に、好意に沈み込み、相手からの言葉を自己内面化してしまう危険性はあるのではないか――。この逃げたい気持ちを、私はセリーヌ『夜の果てへの旅』上巻の結末と同じような強さで感じた。モテの最終地点は誰かと一緒にいることじゃない。なぜならそれでは、その人があっての自信、裏返せば、その人がいなくなれば自分を信じられなくなるからだ。しかも、相手がいつまでも好意を抱いてくれるという保証もない。モテへの向上心をなくしては、生きていく強さを失ってしまうと思われた。
(余談だが、このコラムを読んだ友人から、詩人の穂村弘さんが、既婚者になってもモテたいと書いていると聞いた。それは出来るだけ多く浮気したいとかそんなことじゃなく、向上心としてモテを探求したいという「同志」なのだと感じた)
と「ビビり」つつも、相手へは確かな好意を抱いていたし、一緒にいると安心し、かつ、関係性を深められるような感覚がしたので、なるべく会う時間をたくさん作りたいと思った。それをストレートに伝えると、相手もそうだと言う。さらに、最初に会った時から私に抱いたという好意を口にしてくれた(私は相手への印象がぼんやりしていたうえに、飲み会当日も普段通り派手に酔っぱらっていた)。そこで、前記の「思い上がらない」という超慎重な決意とは裏腹に、私は幸せでいっぱい、舞い上がった気持ちになってしまう……。
が! 次の瞬間に浮かび上がった風船のような幸福感は破裂。
相手には「付き合いたくはない」というようなことを言われてしまったのである。
ど、どうして……。
その夜、一人になって、私は(また)号泣してしまった。
それは、相手のことが好きだからとかそんな気持ちよりも、やっぱり私は幸せになれない、というような気持ちでの涙だったと思う。どうしてようやく、約32年の人生で自らを好きでいてくれる人、一緒にいて楽しい人、その人から良い影響を受けて、私もまたその人のことを大事にすることができそうな相手を見つけることができたのに、どうしてすんなりと行かないのだろう。どうして他の人がそうしているような関係性になれないのだろう。それがたとえ言葉の上だけであっても、他人が得ている幸せを、私も苦労なく味わってみたかった。
そうして私はまた、「人間」視されたいと、女の子扱いされる人とそれ以外という二項対立を自己内面化して、その価値観に陥ってしまっている。大事にされたいと願ってしまっている。私が求めるモテはその価値判断の外にあると理解しようとしても、喉から手が出るほどに、自分が苦労しなくても、先回りして気遣ってくれるような扱いを受け、そうされるのが当然かのようにふるまい、立ち止まって考えることなしに自己の価値があるのだと信じたいと願ってしまっている。
ぐるぐると頭の中で、彼が言ったことを思い出す。相手は、実は結婚しているとか、彼女がいるとか、都合のいい関係を望んでいるとか、そういった理由で「付き合う」という関係性を回避したいわけではないらしい。それよりもむしろ、付き合ってしまうと別れてしまうのが怖いのだ、というようなことを言った。嫌われてしまうかもしれない、嫌ってしまうかもしれない、変に遠慮して、互いに我慢が積み重なったりするかも、と。そして今後も私と会いたいと言い、好意を口にしてくれる。
……私は、実は大切にされていないのかも? 彼が口にした好意も自己愛の反射のようなもの? いや、それは彼の様子からは、信じられない。そう思うが、確信が持てない。
何人かに相談したところ、反応はまちまちで、「とりあえず様子を見たら?」と言う人、「もう会うのはやめたほうがいい」と言う人もいれば、私に相手への好意が足りないのでは、と指摘してくれる人もいた。そうかもしれない。彼もそれを嗅ぎ取って不安に感じるから、付き合いたくない、と言ったのかもしれない。確かに私が泣いた主な理由は、彼そのものより、自分の境遇を嘆いたものであったから。
しかし上記は実のところ、すべて解決したことである。その後、彼は、彼が口にした言葉について、私の気持ちを考えていない自己中心的な態度だったと謝ってくれたのだから。
大人が謝るというのは、勇気がいることだ。そして私たちは、互いに好意を持ち、尊敬を抱き、なるべく多くの時間を一緒に過ごしたいと願っていて、だからと言って互いの生活や仕事をないがしろにするのではなく、励まし合おうという同意が取れている。互いに、自分にないものを持っているので、それを評価し、染み入るように、よい影響を受けている。
本当は「付き合う」とか「付き合わない」とか、そんなことは大事なことではなかったかもしれない。私は、他の人と同じような幸せが欲しかっただけなのだから。彼と一緒にいる時間や、彼が手をつなぐ際に指先で手のひらをなでてくれることも好きだ。将来うまく行かないかもしれないからもう会わないようにしよう、というのも、現在をあまりにもないがしろにした態度かもしれない(私ももう若くないが)。私も彼も、自分たちの関係性を、少しずつ、自分たちの言葉で理解し、とらえ、深めていくことができたのなら幸せなのかもしれない。
この先がどうなるかはわからないのは確かだけれども、少なくとも今は、この人となるべく一緒に多くの時間を過ごしたいと思っている(余談だが、彼は謝ってくれた時に、これから、例えば同棲や結婚、子どもなどの点で「意図に添えないので(私に)嫌われるのではないか」とも話していた。どうしてそこまで先に結論を出して拒絶をするのか、それはまだ理解できない点であることは確かである。でも、将来はまだ見えていないのだし、私はもうすぐ1カ月ほど日本を離れる予定なので、そこで何か変化が起きるかもしれない)。
ここで、私には改めて一つの課題がある。モテ、というのは、何と言っても定義的には周囲から自身へ向かうベクトルをさすことには間違いないだろう。それを根拠のないものにしないように、そして何より自分で自分を大事にしていけるように、自分の身からもまた自分へ向かうベクトルを発して、それを受け止めなければならない。
しかし、私は、外からの好意を受け止める、という訓練ができていない。これからは、安易な内面化をすることなしに、へりくだることも、高飛車になることもなく、その「モテの引力」を鍛えていく必要がある。幸い、私のことを(恐ろしくなるぐらい)大事にしてくれる人が見つかった。その人は、出だしこそ私を涙に誘ったが、私を大事にしてくれていると感じる。ようやく「モテ」の訓練も、妄想ではなく実戦を迎えた。「モテ」の探求を止めないためにも、私は好意を受け止める訓練を始め、そして相手のことも大事にする訓練をしていこうと思っている。
それにしても、このモテコラムを連載し始めたときは、こんなふうに現実に存在する、別の感情と生活習慣と感覚と過去とを持つ人と、共同で「モテ」を深めていけることになるとは思っていなかった。私は成長し続けていることを誇りに思うし、そんな環境に恵まれたことに感謝している。いつもお読みくださり、どうもありがとうございます!