徳光! あんた酷すぎるよ!!
のんびりとした日曜日の夕方、私は寝転んでいたソファーから起き上がり、徳光和夫を睨めつけずにはいられなかった。
「路線バスで寄り道の旅」という日曜日の夕方に放映されるその番組は、徳光(あえて呼びつけにさせていただく)と田中律子(あえて呼びつけにさせていただく)がゲストを迎えて、路線バスで自由気ままに旅をするという人気番組だ。
男の“お笑い”とその“自由な振る舞い”が主役となっているから、バラエティもドラマも、わたしにはちっとも“面白い番組”ではなく、だからこそ、“観ていて不快ではない番組”を選ぶようになっていた昨今。
“路線バス”“徳光”という2つのワードから匂い立つ“平和でのんびり”とした雰囲気につられ、これならば害はないだろうと、つい見てしまった。
その日のゲストは、モデルで俳優の田中道子さんだった。東京駅の地下街を散歩して女性の下着ショップに入りゲスト田中さんが徳光に下着をプレゼントし、そのお返しに、徳光がゲストに下着をプレゼントする。そんなシーンで徳光はこういうのだ。
「僕のパンツ姿見せるからあなたのパンツ姿見せてよ」。
あまりにも、さらっと言うもんだから、私は二度見してしまった。その徳光に一同爆笑。そこにはもちろん田中律子、ゲストの田中さんもいて、みんなが“徳光の暴走”を笑い飛ばしている。テレビ朝日のHPには、この回をつぎのように記している。
「町屋よりスタートした一行・・・・
東京駅の八重洲地下街では、道子さんから徳さんへ下着のプレゼントが!
さらに徳さんも道子さんへのお返し選びに大興奮!」
この番組はヤバい! そう思ってからこの番組は毎週チェックしている。確かこの回と同じ回だと思うが、バス車内の一コマでまた次のようなシーンがあった。田中律子が、「すみませんが徳光さんに薬飲ませてくれます?」(正確ではないです。こんな内容を話していました)と。
窓側を陣取る徳光に田中律子は“番組のお決まり”だと伝えるのだ。
そしてゲストの若い女性が、薬をひとつひとつ取り出し、手渡しし、飲ませてあげるのだ。なんだそれ!! この醜悪。男の世話をうながす、田中律子、そしてそれに従う女。男が考える男の日常世界がこのシーンに集約している。
また別の回、マツコ・デラックスがゲストのスペシャル番組では、錦糸町で立ち寄った場所で、女性店員が徳光に入店をうながし、徳光がお店に入るというくだりがあった。そこでマツコ・デラックスが呼び込んだ女性定員にこう言った。
「“お前”が甲高い声で呼ぶから」
このロジック、私よく知ってる、と、そのとき思った。
男が何かやらかしたときに、なぜか女がとばっちりを受けたり、その攻めを追わせるやり口だ。
「女がこんな遅くに夜道を歩いているからだろう」
「短いスカートを履いて足を出してるからだろう」
「夫が休まらないような家だから浮気されんだろう」
根本的にいつも男は自分の非は笑ってすませ、そして女のせいにする。男の見えない固い連帯が私たちの社会にはびこっている。
しかし、この番組の暴走はまだ止まらない。
入店し席に着く徳光にマツコ・デラックスが、「綺麗なお姉ちゃんがいると甘口になる」と言い、徳光が一言。
「そんなに綺麗でもないでしょう」
そこでも田中律子は決して怒らない。女性定員は最後までこの一行に笑顔を見せる。
きっとこの番組の狙いは、日本を代表するアナウンサーでありながら、温厚で涙もろく人情派、庶民の代表みたいな人が、視聴者の目線で一般の暮らしのなかを歩くというところだろう。
バスの中で居眠りをして、若い女性が大好きで、ギャンブルをしては負けて、商店街では率先してお店に入り、会話するだめおやじ。
だけど、憎めない。それが“私たちのおやじ”。
そんな男とそれをサポートする女の旅。そんな番組だからこそ、素顔の徳光、気取らない徳光が必要とされる。それを本人もきっと理解しているはずだ。だから毒舌を封印しない。
その狙いをしっかりと表現しているのが「路線バスぶらり旅」なのだ。その風景を「いやねぁ徳さん??」と笑い、許す、それが今のこの国の姿なのではないだろうか。私たちのまわりにいる“おやじ”は徳光的で、そんなおやじを許し、なだめる女、田中律子的女がいる国、それが日本だと実感させられた。
徹夜明けで目覚めた平日の正午。
迂闊にもとんでもないものをまた観てしまった。
倉本聰作の「やすらぎの刻〜道」。
それはこの上半期でもっともおぞましいドラマだった。満蒙開拓団として故郷を後にする友人たちと過ごすために久しぶりの枕を並べる若者(男)4人(たしか4人)。固い友情で結ばれている。混沌とした時代と田舎ののどかな風景が織りなす故郷との対比が画面からにじみ出る。
枕を並べる若者はそれぞれに満州での夢を語り合うのだが、満州に旅立ち結婚を控えているという“青っ洟”と呼ばれる男がせっぱつまった問題があると話し出すのだ。
「俺は女を知らない」(的なことを方言で言っていた)
「初夜に何をしたらいいんだ・・・」(的なことを方言で言っていた)
おい!!倉本!!!!戦争と女、時代の悲壮感と男のロマン!そして男の友情!おまえ、それでも脚本家か?!!!まだ、ルルルルのほうがましだ!!!
私はテレ朝に苦情電話をしようと番号を調べ始めた。しかし、その手は止まった。その後、若者たちが慕う兄貴分みたいな男が登場し、その兄貴分が男たちをある家の前に集合させる。庭先の暗闇の中、隠れながら、ある家を眺めていた。兄貴分は「話はつけてある」と青っ洟に伝え、シカの肉を差し出した。「犬が吠えたら、この肉を投げろ」という。
青っ洟が一人、その家に向かうと障子が開き、女の姿が見えた。女は人目を気にしながら、青っ洟を部屋に入れた。残った若者たちは家に入った青っ洟を待ちながらこんな会話をする。
「未亡人?」
「金を払ったのか」
「ただで教えてくれるのか」
「そうだろう」
(厳密ではないです)
そして戻ってきた青っ洟はこう言うのだ。
「あれは天使だ」
私はこのシーンを見て確信した。これが「慰安婦」の問題が解決されない理由のひとつだと。
当時、「慰安婦」の方々を“知る”という男たちの話を読んだことがある。そこには、「慰安婦」として過ごした女たちの苦しみはなく、“あの時代”を共に苦しんだ、あの時代はみんな苦しかったというメッセージが滲み出ていた。
そして、その苦しみは兵隊も「慰安婦」も同じ、“お国のため”。
“戦争のせい”と言いたげだった。
それを読んだとき、私はなんでそんな自分勝手な見方ができるのか、怒りとともに理解できなかった。自分たちの“罪”をないものにするために、嘘をついているという理解のしかたをしていた。
だが、それは違っていたのではないだろうか。
死にゆく兵隊にとっては“天使”なのだ。「慰安婦」の方々が日本兵にとって、そんな存在なのだとしたら、その兵隊たちには、「慰安婦」の方々の痛みなど見えてはいない。
天使は苦しまない。不幸などない。
もはや人間を超越し、男をやさしく包み込むためだけの存在である。
将来を絶たれるその悲しみと国や家族を守るために闘う自分の“不幸”が一番、自分たちが置かれた“死の恐怖”、不幸が優先されていた結果、兵士たちは都合のいい偶像、もしくは“もの”として「慰安婦」の方々を見ていたのではないだろうか。
このドラマで、兄貴分に男たちから尊敬の念が注がれる。女の存在、そこにある問題や感情など無視して、女のカラダを介して結ばれる男と男のいい話。この男たちの視線は、「慰安婦」の方々がいた場所に蔓延していたはずだ。
天使はいた。
いい話は“本当の話”なのだ。
だからこそ、「慰安婦」は強制ではないのだ。
強制ならば自分たちのストーリーは“いい話”ではなくなる。
その行為は肯定されなければならない。だから“天使”がちょうどいい。
元兵士たちの声だけではない。
今の男たちのロマンにも関わる大事な話なのだ。
そしてその“行為”が終わるまで待つという姿が、今の男たちとだぶった。時代を超えた男たちの統一化された感覚がこのシーンを生み出したのではないだろうか。
そしてこのシーンを描いた“戦争”を知る倉本聰こそが、歴史の証人者ではないかと思う。
あのころの男たちの会話、考え方、そして男の犠牲になった女への視線。
倉本聰が当時の兵士たち声を代弁する、いたこのように見えた。
ちなみの次の回では、青っ洟を見届けた男たちの一人がその晩に母を亡くし、死に目に会えず、母が死んでいくときに“いやらしい”ことを考えていた自分を恥じるという話だったらしい。
もう言葉にならない。
テレビは私を不快にさせる道具になりかけている今、最後の砦、警戒心なしで楽しめるドラマがある。
それは「科捜研の女」。
次回、その魅力について語りたいと思う。