最近、もやもやとした(けれど周囲の同情を得られなかった)ニュースがあった。
それは、南海キャンディーズの山里さんと、女優の蒼井優さんの結婚だったのだけれど、私は二人の人間性を知らないし、蒼井優が出ている映画やテレビも、最近(でもない)だと「アズミ・ハルコは行方不明」ぐらいしか見ていないので、何も評価できる立場にない。しかし、反響の大きさにネットニュースを調べてみると、
1. 二人は、山里さんの相方である「しずちゃん」の紹介で知り合った
2. 山里氏は「しずちゃん」に数年にわたる嫌がらせ(無視など)をし、以前は解散危機にあった(その後、和解)
3. 交際については知らせず、「しずちゃん」は結婚について報道直前に報告された
4. そして、「しずちゃん」は結婚会見にも出席した
ということがわかった。そして、私がもやもやとしたのは、「しずちゃん」についてである。
ここから先は、彼女がどう思うのかは別に、私が彼女に自分の気持ちを投影して見たことだということを先に断っておきたい。
つまり、この世には、男性から見て「女性」と見られないことで人間視されない側というのが存在する。うまく表現できないし、それについては雨宮まみさんの著作が繰り返し書いてきたことだと思うけれど(本当にこの#metooの時代に彼女がいないことが残念でならない)、私もまたそちら側の人間であり、そうした態度の違いに直面することが多かった。
例えば上の例で言えば、山里さんは「しずちゃん」と「蒼井優さん」の間で、明らかに態度の違いがある。
女性として扱う蒼井優さんに対しては優しく紳士的で、賞賛される言動をしているのに対して、「しずちゃん」に対しては、彼女に非がないことについても徹底的に冷たい態度をとる。周囲もその違いを当たり前のことのように受け止めるのだろう。「しずちゃん」は、彼女の寛容さで和解をした後も、自分の友達を紹介してもなお、交際についてきちんと知らされることもない。それでいて彼女は、結婚会見ではおどけた態度をとって、山里さんを持ち上げる。
私も同様な目にあうことが多かった。
例えば飲み会の場所に私ともう一人女性がいたとして、彼女にしか話が振られず、こちらはひたすらサラダを取り分ける役に徹したり(しかもそれが当然視される)、結果的に女友達を紹介するような形になった男友達から、交際の報告もないままに一方的に「お前は?がダメなんだよ」と横柄な態度をとられたり、その場にいないような態度をとられ、あるいは、与えて与えて、それが当然とされ、見た目の悪さをズケズケと指摘され、説教され、偉そうな態度をとられ、目の前にいる人と明らかな扱いの差がつけられる……といった経験を、トラウマのように重ねてきた。
そこで居場所を作るために、わざとおどけた態度をとったり、自分を卑下するようなことを口にしたりして、自分はそれが当然なのだ、価値がないのだと思い込んできた。
職場でもそういった経験はあったけれど、特に雨宮まみさんが『女子をこじらせて』(ポット出版、2011年)で書いたように、学生時代はもっと露骨で、「女性として価値がない」ということを残酷なかたちで繰り返し知らされ、自己意識へも反映されていく。
あるいは、年齢が加わるとさらに見えてくるものがあるのかもしれない。
改めて「なんでモテたいのかなあ」と考えた時に、私は自分が人間扱いをされたかったのだと感じた。それはまた、妖怪人間ベム・ベラ・ベロが毎回エンディングで溶けながら「早く人間になりたい」と言うような切実さだったけれど(例が古くてごめんなさい)、私は常にそう思ってきたのである。
なので、つい最近までは、求められるとそれだけで無条件で嬉しくなってしまい、ヘラヘラしていた。しかしそれだと結果的に、相手が上で、自分がいくらでも下に下がってしまう。近頃は落ち着きも出てきたので、相手の自己愛に絡みとられない尊厳を持った態度というものを手にしたいと、堂々とするように心がけている。
つまり、以前の私の中の「モテ」の理解は、非人間的な扱いから抜け出し、周囲から「女性の側」として認められ、それ相応の扱いを受けることで、私はそれを切実に求めていたけれど、最近では、ずっと意味が変わって、そういった二つの分別そのものから抜け出し、自らの力で自分の価値を認め、それをきちんと認識できる人々に囲まれたい(私の良さを認識してくれない人は、いらない)――そんなモテを目指している。モテは受け身のことではなく、私のことを尊重してくださる分、相手のことも(へりくだることなしに、対等な立場で)大事にするということなのだろう。
とはいえ、自分のことを好きになる過程という、私の追い求める「モテ」の前段階は、「はい! 発想転換!」といって一瞬にできることではない。そのためには、第一回に書いたような口紅だったり、あるいは服だったりするアウトフィット、もしくは読む文章、観る映画、付き合う人々が、肌に染み入るように自分へも変化を及ぼす。わずかな光源を頼りに、その方向に少しずつ這って向かうしかないのだ。
最近になって、私は自分がどんなものを着たいのか、どんなものが似合うのか、ようやくわかるようになった。さらに、以前は、たぶん自己評価が低かったからだと思うが、高いもの、ブランドものなどは自分にはそぐわないと盲目に思い込んでいた。選択肢にすら浮かばなかった。
それが、少しずつ、例えばおしゃれな服を試着したりすることで(試着というのは、ずっと「その服が入るかどうか」という絶望的な瞬間だった。それが今では私が選ぶ側にいる! こんなに楽しいことがあるなんて!(しかも無料!))だんだん抵抗感を失くしていった。
先月も私は、1万円を超えるワンピースを(えいやっ! と思い)購入したが、自分の皮膚を着ているような気がした。その服を着た自分のことは、手っ取り早く、好きになれそうだ。そして私は、その服に似合うような姿勢、言動、まなざしをしたくなる。パサパサの髪では服に対して申し訳ないので、入浴時に気を使うようにする。少しずつ、私は自分を認めることができるようになった気がする。
突然だが、「好きかなあ」と思う人ができた。特に会ったりもしていないし、連絡もとっていないのだけれども、職場でコーヒーを淹れている瞬間などに、ちょっとしたやり取りを思い出して、口元をゆるめたりしている。相手にはものすごく真面目な印象を受け、それに対して尊敬の気持ちを抱いたので、私も負けずに頑張ろうと思い、1年半近くだらだらと取り組んできた翻訳も追い込みをして、ようやく終わりが見えてきた。
私は自分にこんな感情が生まれるとは思っていなかった。今までの「好き」は、その人が自分に好意を抱くかどうかの賭けであり計算であったけれど、今回の地味な感情はずっと異なり、思うだけで十分幸せな気持ちを得ている。ありがたい。
毎日いろんなことが起こるので、この気持ちが長続きするかはわからないのだけれども、バーブラ・ストライサンドが歌っているみたいに「誰かを必要とする人間は世界で一番幸せな人たち」なのだ(「People」)。ずっと「幸せになりたい」と祈ってきたけれど、小さくて、穏やかな幸せを手にできた。――別に行き着かなくても、いいや! こんな幸せがあったとは知らなかった。