彼女たちのために花束を
2019.04.25
フラワーデモに参加した人たちから、当日の様子を聞いた。制度や法への疑問を感じ、性暴力のない社会を作りたいと、自分たちの思いや経験をわかちあいたくて、いてもたってもいられず集まった人たち。
ミソジニー判決に怒りの声。フラワーデモから始まる #WithYou #MeToo
https://www.lovepiececlub.com/column/12228.html
相次ぐ性犯罪無罪判決に抗議する!「 #MeToo #WithYou 4・11緊急行動」@大阪
https://www.lovepiececlub.com/column/12272.html
コップから、水があふれ出したのだと思った。
セクハラという言葉が広まってから30年。
いまだに、被害の声をあげた女性が邪険に扱われて、バッシングされる。
声をあげるのをためらえば、日本に #MeToo が広まらない理由を述べよと、なぜか女性が問われる。
そのたびに、コップには、水がたまっていく。
今、沸き起こった怒りじゃない。
無罪報道に対する「脊髄反射」なんかじゃない。
無罪判決にもの申したいと、裁判官をつるし上げたくて集まったわけじゃない。
この30年で性暴力を巡る社会の認識や制度は大きく変わった。
わたしは、リアルタイムでその時代を経験し、時には「渦中」にいたから、よくわかる。
本当に変わった。
以前は、性暴力という言葉を日常的に使えるようになるなんて、想像もしなかった(いや、使わないでいられる社会=性暴力のない社会が、いいにきまってはいるのだが)。
もちろん、それは、昔がそれほど酷かったというだけの話で、現在も問題は山積しているのが事実だ。
性暴力に抗するために集まった女性たちへの、非難の声が弁護士たちからあがった。法の素人がと揶揄する人や、彼女たちの行動を「正義感を振りかざしてオナニーしたいだけ」と切り捨てる人までいた。
あの場に集まった中には、被害に遭った経験を持つ人たちも大勢いた。
こうした言葉が、直接でなくとも、彼女たちに向けられたものだと思うと、次は、彼女たちのために花を持って集まらねばという気持ちになる。
成人女性の半分は性暴力(痴漢)被害経験者だというデータがある。
内閣総理大臣官房男女共同参画室 男女間における暴力に関する調査(平成12年2月)
http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/pdf/h11.pdf
20年ほど前の資料だが、痴漢冤罪問題では、警察の捜査方針が大きく2回変わっているのに、それ以前のデータを持ち出して、今も同じことが行われているかのように書いて読者の恐怖心をあおってもかまわないらしいので、
https://president.jp/articles/-/28079
痴漢被害についても、同じ時期の公的統計に言及することも許されるだろう(ちなみに、この記事、タイトルに「痴漢冤罪 "嘘つき女性" から身を守る方法」とあるのに、痴漢冤罪嘘つき女は登場せず、タイトルに偽りあり! の男性に女性嫌悪を植えつける問題記事なので、皆さん、ご注意を!)。
女性が集まれば、性被害経験者は当然いるもの。
そこに、「オナニー」という言葉をぶつけられることに、心底驚く。
それが法律家によるものだということにも。
もし、被害者がいると思わずの発言だったとしたら、そんなことすらこれまで知らずにいられたことを問題に思ってほしいと思う(仮に被害者がそこにいなかったとしても、「正義感振りかざしてオナニー」はダメだと思いますけどね)。
ツイッターでは、こうした弁護士のつぶやきに、同業者による、「言い方」に問題はあったが、内容はその通りだ、というものをいくつか目にした。
どう伝えるか、どんな言葉を使うか、そこに、相手に対する態度があらわれる。性暴力や女性に対する軽視や侮蔑が、「言い方」に如実にあらわれている。たかが「言い方」くらいにしか思っていないのだとしたら、言葉を駆使して仕事をする法律家としてどうなのよ、と思う。
弁護士といえば、ずっと気になっていることがある。
2017年の刑法改正で、「監護者わいせつ及び監護者性交等罪」が新設された。たとえば、父親が18歳に満たない娘に性的行為をしたケースでは、暴行・脅迫がなくても処罰対象となり、同意の有無は問われない。それについて、2016年9月15日付けの日弁連「性犯罪の罰則整備に関する意見書」では以下のように反対意見が述べられているのだ。
13歳以上の者は性交の意味を理解することが可能であるから,相手方が監護者であるからといって直ちに真摯な同意がないとみなすことはできない。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/
opinion/year/2016/160915_4.html
これを初めて見たときには、喉の奥から、ひょえっ、とヘンな声が出た。どうしてそうなる! だって、性虐待でしょうよ。「真摯な同意」があると判断する根拠が、性交の意味を理解することができるからって、知識か何かの問題にすり替えられているけど、そもそも、13歳で、性交のことや性的同意について、しっかり学んでいるとは思えない。加えて、知識と実践は別物だ。わかっていてもできないことは数多ある。
ましてや、力関係のある親からならなおさら。自分の娘への性的行為は性虐待であるということは大人であれば理解することができるから、たとえ子どもが同意を示したように見えてもそれを同意と見なしてはいけない、とはなぜならない?
だいたい、子どもの性的同意について言い得る立場の人があるとしたら、当事者か、児童心理の専門家や精神科医で、弁護士がそれを主張することは、その職域からできないのではないの? これこそ、素人の主張にすぎないのではないの?
多くの女性が、この意見書に今でも「疑問」を持っている。
あふれ出たコップの水のいくらかは、この「疑問」の水なのだよ。