ときどき、職場の書店のツイッターで、新刊本を紹介しています。私が本屋で見かけて気になったものを取り上げるといった体で、ページをぱらぱらめくって引っかかった文章や、あとがきや解説で端的にその本の内容を示しているような文章などを引用します。
なるべく多様なジャンルを、と思っていますが、どうしても、政治、ゲイ、フェミ、あとは好きな作家に偏ってしまいます。
その中でも、これは違うわ、とあまり共感できないものは遠慮してしまいます。
今回はそんな本を2冊取り上げてみたいと思います。
ネタバレしますので未読の方はご注意ください。
*『けい君とぼく』(魔夜峰央、みらいパブリッシング)
*『闇夜の底で踊れ』(増島拓哉、集英社)
第何次かわかりませんが、「LGBTブーム」ともいえる現象が出版界にも押し寄せているようで、毎月数点その関連本が刊行されています。
理解を深めるという点ではいいことだと思います。
先日『パタリロ』の100巻を出したばかりの魔夜峰央が、今度は『けい君とぼく』という絵本を出しました。天使の輪をつけた二人の男の子(幼稚園児)が仲良く手をつないで歩いている表紙で、バックには星がきらめいていてとてもかわいい装丁です。
「ぼく」こと、みき君は同じ園のけい君が好きなのですが、ママとパパはそれを異常だと考えています。そこでパパが説得を試みます。
「みき君、ぱぱにはおちんちんがある。みき君にもある。けい君にもある。みき君のおちんちんとけい君のおちんちんがぶつかったらけがをする。だったらおちんちんのない女の子のほうが」
ここでまず、ひゃあ、と変な声が出そうになりました。
そのパパのセリフにかぶせるようにみき君は反論します。
「ぼくおちんちんがすきなんじゃないよ。けい君がすきなんだよ」
きゃー、とあまりの展開にいったん本を閉じてしまいました。
パパのセリフには、「怪我しねーよ」とすかさずツッコミを入れましたが、みき君の反論もどうかと思ってしまいました。
まだ幼児だし、あり得る展開とはいえ、彼がこの先ゲイとして成長していく過程において遅かれ早かれ「おちんちんもすき」に変わるはず……そうなったときに、この性欲を脱色した自らの発言に足止めをくらわないだろうか、私はそれを懸念します……と、絵本の中のパパとママの苦みつぶしたような顔と同じ顔になってしまいました。
いや、しかし、この先、性器至上主義のような欲望は衰退していくかもしれません。どこまで自分の欲望が文化的なコードでつくられているのかはわかりませんが、少なくとも私には、同性愛を肯定する表現で、このような描き方はできないわ、と思いました。
ただ、ラストは素晴らしい。
次行きます。
『闇夜の底で踊れ』という小説は、作者が19歳ですばる文学賞を受賞したことで話題となっている作品です。
達者な筆力、と各選考委員が絶賛している帯がついていて、惹かれたのは大阪弁が魅力的に描かれていそうなところでした。
主人公は35歳の元極道、パチンコと日雇いで日々をしのいでいます。
十三のパチンコ屋で勝ったあと、ひさしぶりに風俗に行こうと、歩いて淀川の橋を渡り、茶屋町を過ぎ、兎我野町にたどり着く、という始まりは、近所感が強すぎて、すんなり世界に入っていけました。
そこで一番高い風俗嬢にハマってしまい、パチンコだけでは追いつかず闇金に手を出してバックレているうちに、昔世話になったヤクザの親分につかまって借金の肩代わりに違法な仕事を請け負うはめに。そうこうしているうちに抗争に巻き込まれ命を狙われるようになり……。
というサスペンス要素を含んだ内容で、大阪弁のやりとりも面白く読み進めていたのですが、最後に主人公がゲイだとわかった瞬間にひっくり返ってしまいました。
中学生のときにそれがばれるのが嫌で同級生をレンガで殴って少年院送りになった、という伏線を鑑みると、そこまで思いつめるほど、ガチでゲイだったということになります。だったら、しょっぱなから風俗で働いている女の子にハマるわけないじゃーん、と今までのリアリティが吹っ飛んでいった気分です。しかも、その女性は物語のカギを握る重要な人物として描かれています。
ねえ、ノンケで良かったんじゃない?
過去のトラウマを「クローゼットのゲイ」にしてしまうアイデアはいいとしても、それだったら今はハッテン場に行っているでしょう、35歳。
やるせない無理解です。ヤクザのリアリティはわかりませんが、ホモのリアリティは感じられませんでした。
どちらの本も、あくまで私の見立てですが、「ゲイ」が都合よく使われている印象でした。それにしても、新人から大家まで、題材に使わずにはいられないほどのブームのようです。