黄色いヘルメットをかぶった代々木が来ると、私たち銀色のヘルメットをかぶって、トロツキストゲバ棒持って対決する。革命ですよ。信じていたからできたんですよね。じゃなくちゃできなかったよね、あんなこと。ああ、色があるんです、ヘルメットに。全部、覚えてますよ。黄色が民青。銀色が全共闘(ノンセクトラジカル)。白は中核。核丸は白にZって書いて線が入っていた。フロントは緑、ブントは赤で、アナーキストは黒。そういう風に色が決まってた。何故かは知らない。もちろんヘルメットを買ってきて、色塗るのよ、みんなで。
火炎瓶の造り方? あれ、マニュアル本があってね、あれは男たちが夜中につくっていたみたい。瓶、ガソリンを用意して、布でフタして。それから、ゲバ棒を買ったり、石を運んではためていた。石は鴨川の石とか、あと、コンクリートを剥がしたりとかしてた。コンクリートでヒビが入っているところあるじゃない? 当時はそんなに整備されてませんでしたからね。そういうヒビを見つけて割って、持ってかえる。武器ですよ。写真? あるわけないじゃない。忙しかったんだから(笑い)。
火炎瓶投げるの手榴弾投げるのも、巧くやらないと爆発しちゃうから。命がけでやっていたのね。機動隊とのやりあいも、命がけ。ひっぱられれると、陰で警察にがんがんやられるから。私たち女は火炎瓶は投げずに、後方部隊で石を投げたり、救対や食対をしていました。救対は救援対策、食対は食事対策の略。
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●食対・救対の女 |
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救対はね、機動隊や代々木とぶつかった時、女の子は教室の一角に救対をつくって、赤チンやヨードチンキを大学のどっっかからひっぱりだしてきて、男に包帯まいてやったりとか。今になると、笑い話みたいな感じだけど。戻ってきた男たち、けっこう血を流してたりしてるんですよ。やーねとか言ったりしながら、包帯巻いてました。
食対は、オニギリ部隊ね。食事の支度というかオニギリをとにかく、つくる。朝方に機動隊が来たりすることが多かったので、ことが起きる前にお腹いっぱいにしなくちゃって。お金なかったから、塩オニギリが多かったかな。時に梅とか昆布とか。で、せっせとオニギリつくって。1人20、30つくって。大きな箱いっぱいにおにぎりつくりましたよ。
自分が母親と同じことしてるとは思いもしなかった。ただ、だんだんだんだん、ヘンだなヘンだなって思うようになったのよね。ある日、大学を占拠した者たちが集まって今後の闘争の意思一致のような集会があった。だれだれはゲバルト部長、誰々は〇〇の担当とか決めていって、で、私が救対部長に名前をあげられて、なんだかすっごく・・・その時に初めて、違和感を覚えた。
なんで、私が、女が、食隊なのか。やっぱり毎日毎日、おにぎりつくってたらやんなんってくるのよ。おかしいな、って。それから、男たちの暴力的なところはどうしても受け入れられなかった。私も十分やってはいたんですけどね(笑い)。
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●消滅した、学生運動。そして東京へ |
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当時つきあってた男が、代々木つかまえてリンチしたという話しをしていた。当時、そういうのよくやってたの。私たちも向こうに捕まってリンチされたのもいる。報復なの。暴力の。ほんとヤクザみたいだよね。
どんどん視野が狭くなっていって。最終的にはどうする? ってことになり、私たちのところでは授業料払い込み拒否闘争をやろう、ってことになって。結局、最終的には機動隊が入って、ポシャッちゃった。学生運動していた学生は大学を放り出されてしまった。
私たち、本気で信じていたのね。自己変革、造反有理とかなんとか。負けた後、どう生きていいか分からなかった。他の人たちもそうでしたけど。20才くらいの若造たちが、シニカルに「これからは余生だ」なんて言っていましたけれど。
大学を辞めた後、結局、働くしかなかった。組合運動をヤル人たちもいましたけど。私は、運動にはダイレクトに関わりたくなかったので、当時つきあっていた男と、大学を辞めた後もしばらく同棲していました。親には秘密。ご飯? つくっていましたよ、彼の分も。彼は家から仕送りがない。私にはある。彼は運動やっていたのね。まだ、運動やってたの。ずうずうしい男ね(笑い)。私は、だから生活費を稼ぐためにバイトしていた。でも、私の方に負担感ができてきて、ケンカになる。で、それでまぁ前に目を向けてみようと東京に戻ってきちゃった。
造反有理:文化大革命時にスローガンとなった有名な言葉。「マルクス主義の道理は入り組んでいるが、つまるところ一言に尽きる。造反有理だ」(『毛沢東語録』) 日本の学生運動でも大流行した。平たく言えば、反乱するには道理がある、か。
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●東京で出会った、女たち |
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東京に戻ったのは1972年。そうしたらね、私と同じ体験をした女がごまんといたわけですよ。女は救対、食対やって男たちを支えて、そんな経験の話がいっぱい。まるで違う地域でそれぞれの運動をしてきているのに、同じ思いしている女たちがこんなにいるんだ、と、何故かすっごく感動したのね。どこ行っても、そうだったの同じだねって。私がヘンだおかしいと感じていたことは間違いじゃなかったんだって。田中美津さんの『便所からの解放』なんて、そうだそうだ、と嬉しくてたまらないという感じで読みました。
3ポイント(スリーポイント)って聞いたことあるでしょう? 私より上か同年代の人たちがつくった喫茶店。ちょうど銀座松屋の近くで開いていて女リブ系の人たちがまかされてお店をやっていた。当時の女はそこに集まっていたのね。そのスリーポイントが後のホーキ星に受け継がれました。
ホーキ星は、新宿二丁目の近くだったんだけど、普通の二階屋の汚いところでしたよ。一階には本がいっぱいあって、上が6畳と4畳くらいのゴチャゴチャしたスペース。そこに女たちが賑やかに集まっていました。生理痛の時はこんな運動するのよ、とかみんなでやっていた。何かをつくりだしていくような、ワクワクするような、自由で、楽しい気持ちに溢れていました。
私、やっぱり「フェミニスト」とは自分のこと、長い間言えませんでしたね。だって、リブのあの空気を知っているから。フェミニズムという言葉はいつから出てきたんですかね。ある日、ふと気が付いたら、フェミニズムという言葉が一般的になっていた。え、いつから? という感じだったんですよ。ずっとフェミニズムが私の中では受け入れられない気分があった。学者の間で出てきたっていうのがあるから。リブはごく普通の女たちからっていうのがあって。自分の言葉と、自分のやりたいことを一致させていたことが、リブだと、私は理解していましたから。
田中美津:リブの代表的人物。「複数のリブグループが拠点にしていた「新宿リブセンター」を中心に、リブの声を紡いでいった伝説的人物。代表作『命の女たち』
『便所からの解放』:一九七〇年六月に田中美津が配った長文ビラのタイトル。当時、男性と共に闘い「現実」を見たオンナたちの共感を強く集め、瞬く間に広まった。
スリーポイント:銀座4丁目近くのビルの女性オーナーから、スペースを提供されて作られた女のスペース。東京で初めての女性たちのためのオープンスペースとなる。1971年12月から1975年12月まで営業。提供されたのは、「レディー・ボイス社」。女の自立意識を企業に結びつけようと考えた最初の会社である。その後、メンバーの1人の岩月澄江さんが、ホーキ星を経営。岩月さんは現在、「姉妹たちよ」のカレンダーで有名な「ジョジョ企画」のメンバーである。
ホーキ星:3ポイントは、オーナーからあけ渡しを命じられたことを機会に、新宿二丁目の一軒家を借りて、再スタートした。喫茶店兼ミニコミ書店。岩月澄江さんほか4名の女性たちが中心になって運営していた。
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●離婚したときは、本当に嬉しかった |
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東京に戻ってきてから、黒ヘルの男とつきあいが始まりました。アナーキストね。彼の部屋にいた時、朝、ガサ入れがあったの。そのまま彼は警察に連れて行かれたんですよ。運動も下火になっていた頃だけれど、結局、半年か一年くらい警察に入れられていた。出てくると、ま、前科一般でしょ。政治犯だから公安がつくんです。居住地域とかきちんとしなくてはいけなくて、籍を入れた方がいいだろうとお互いに思った。籍入れてからすぐに、子どもができました。
で、そこからまた、色々あったんですけどね。その男とは。長野県に、男が民宿をはじめたんですよ。彼の父親の残したものがあったので、それを元手にね。ところが、本当に大変な生活になってしまった。彼と生活をはじめてから本格的に、色々な矛盾を感じはじめてきた。完全に、私が、つくる人、僕食べる人、という感じだった。子どもの世話はしない、家のことはしない。本当に呆れかえるような男。
ケンカばかりしていました。一緒に運動した人だから当然、家事は半分、そういうことをする人だと思い込んでいたのですよ、私。前の男だってそうじゃなかったのに、また同じ間違いをしちゃった。それもさらにひどい部類の男。子どものおむつ、みててね、って言ったら、本当に見てるだけの人。おしっこをようやく変えられたけど、うんちの方は変えられなかったね。
一番腹を立てたのは、私が民宿の部屋をバタバタ掃除しまわっている時に、その男は平然と新聞を読んでるの。この私がフウフウいって働きまわっているのに、なんで新聞読んでられるのか、神経疑っちゃうよって、もう腹が立って腹が立って、蹴飛ばしたこともあった。別れる間際は、すごいケンカになってね。彼もすごかった。手を出してきて。で、私も殴り返して、モノの投げ合い。髪の毛引っ張
られて顔にあざができて。それで、子ども連れて実家に戻ったりを何度か繰り返して、もうこれ以上やれない、いられないと、別れた。4年持たなかった。協議離婚して、当時で養育費を月に2万と決めたけど、やっぱり払いませんでしたね。1回か2回だけ。
経済的には不安を感じなかったな。それよりも、嬉しかったの。だって私、まだ20代の終わりですよ。体力もあったし。離婚を決心できたときは、目の前がパーッと明るくなった。嬉しかったんです。それにね、私は、当時『女エロス』とか読んでいて、東京に戻れば、女たちがコミューンつくって、共同で子どもを育てていた、そういうのがあるから大丈夫だと思っていたの。で、行ったら、もうなくなっていたんだけどね。(笑い)
『女エロス』:1971年8月リブ合宿で出会った女性たちが編集したウーマン・リブ雑誌。5人が10万円ずつ出し合って創刊号を創る。大谷純子、佐伯洋子、舟本恵美、三木草子、吉清一江。82年終刊まで17号を出版。17号までには16人の女性が参加している。創刊号は総計20000部発行した。
コミューン:地方自治体の最小単位として捉えられるグループ。子育てなどを共同で行う、当時のリブの「子育て」の1つのモデルとして実践されていた。
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●子育てと思想と |
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子どもは保育園に預けて普通のデスクワークをはじめました。9時5時で終わる仕事を選んでいました。生命保険の会社でも半年くらい働きましたよ。小学校を卒業するまでは、残業のない仕事を選んでいたんです。
フェミニストの息子はフェミなのか? うーん、そうねぇ。私は子育てを失敗した口ね。押し付け教育やったから。学校に行きたくなければ行かなくてもいい、輝いて生きられるなら学校にこだわらなくてもって。イギリスのサマーヒルや山岸の幸福学園とか、当時そういうのがいっぱいあって、その考え方に影響を受けて、単純に信じて、放任主義。
一方で、性教育の本や童話を保育園の時から与えた。ホントバカみたいに頭でっかちだった。ペッサリーとか見せて、避妊の道具だよとかやって。(笑い) ペッサリー? 彼が10才の頃じゃないかしら。保育園から茶碗も洗わせて、子どもの父親はのようにはならないように。自分のことは自分で、ついでに人のこともやらないと時代に取り残されるよと。
自由に育てる、ってつもりでいたけど、逆ね、すっごく押しつけてきた。結果的に、反面教師になっちゃった、私。
子育てに成功しているフェミだっていますよ。そういうフェミの方が多いと思うけど。だからねぇ、ま、子どもは、変なお母さんだと思ってたんじゃないの? 周りからも。貧乏だったし、学校では苛められてたみたい。貧しいのは悪いことじゃないよ、と言うんだけど、ゲーム類は買わない、テレビも見ちゃいけない、一日一時間とか、そういうことをやっていた。それに私は働いていて家にいなかったから、今考えると、子どもは寂しかったのだろうね。
普通のお母さんじゃないし。子どもからスカートはいてって言われたこともあるし。すごくカワイソウだった。お化粧? 大学のころからしたことない。化粧なんて、媚びることだって、思い込んでいたから。ずいぶん長い間、そういう風に思ってた。いまは違いますよ。でも、スカートは今でもはきたくない。
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●新しい「女」運動 |
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婦人民主クラブで働きはじめたのは、子どもが小学校を卒業したから。これでやっと私自身のやりたいことをやれると思ったのね。自分の価値観と違わない仕事をしたいと漠然と考えていたときに、この話しが来たから渡りに船でした。
婦人民主クラブは、46年3月に占領軍GHQが、女性たちの組織をつくろうと、女性文化人8人を集めてつくった会なの。佐多稲子、宮本百合子、松岡洋子などが創始者のメンバーに入っています。発足のころには、だれでも参加できて、助け合って民主的になっていくという思いをこめて婦人民主クラブと名づけられたのね。婦人の大衆団体というイメージだったようだけど、宮本百合子さんは、女1人1人が自分の人生を精一杯生きるため、その力を身につける必要性を、ここで強調されていたそうです。この思いはリブに十分つながりますよね。
発足した年の8月に活動の機関紙として、新聞が出来たの。それが今の「ふぇみん」の元になった「婦人民主新聞」。それが次第に社会的な運動になっていって、どんどん広がっていったんです。あの頃は女の新聞なんてなかったから、熱狂的な読者がたくさんいたんですよ。今では考えられないけれど10万部くらいの発行数があったとも聞いた覚えがあります。
1963年に、ここ(原宿)に事務所を買って移転したんです。そのころはもうGHQは関係がなく、支部の女性たちが資金を出して、さらに読者のカンパでまかなったそうです。そのころの細かいことを知っている先輩は、どんどん亡くなっているから、正確には分からないのだけれど。
ふぇみんはね、先輩の女性たちが、愛情を持って、育てて、つくってきたわけです。本当に愛着を持って、ふぇみんを育ててて来てくれた。時々ね、亡くなった方が、ふぇみんにって、遺産を残してくれることがあるんですよ。1人で生きて、働いてきた先輩の女性たち。女1人が貯めたお金だから、多いとは言えないかもしれない。それでも、そういう女性たちが、何人かいるの、ふぇみんには。本当にありがたくて、泣けてきます。
佐多稲子:作家 1907-1998。1928年『キャラメル工場から』を発表、その後東京モスリン工場争議に取材した5部作でプロレタリア文学の作家として確立。戦時下には中国へ戦地慰問を行い、後に戦争責任を問われる。戦後も戦争責任に触れた『私の東京地図』、被爆を描いた『樹影』など数多くの作品を発表。朝日賞など多数の民間の文学賞を受けた。70年から85年、婦人民主クラブ委員長。クラブの活動に精力を注ぎ、共産党や中核派の介入からクラブを守った。
宮本百合子:1899-1951。1918年『貧しき人々の群』 を発表。社会的人間の解放を求めてプロレタリア文学へ参加した。ロシア文学者湯浅芳子とは良きパートナーであった。
松岡洋子:初代婦人民主新聞編集長
婦人民主新聞の成り立ちについては、宮本百合子さんの文章が残されています。青空文庫をご参照下さい。
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●リブ後、女たちが立ち上がったとき |
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私がここで働きはじめてからちょうど15年が経ちます。ものすごく楽しかったですよ。志がおなじ人と価値観の違わない仕事をするのは楽しい。苦しまないですむ。生命保
険の勧誘も一時的にやってことがあるから、自分が信じていないものを売る苦しさを、知っていますから。
とにかく、女性たちがやるところは応援したいと思うじゃない? まずそこ。女たちが動く、その場にいたい、というのはいつでもある。それからやはり「性」に関しては、最後まで差別が残るので、そういう問題にずっと関わっていたい、そういう思いがある。
「性」にこだわるのはやはり理由があります。ストーン90、知っていますか? 「性暴力とたたかう女たちのネットワーク90」です。89年に設立し、90年に旗揚げのパレードを渋谷でしました。「性暴力ノー」「女を強かんするな」ってプラカードをかかげて。ああいうのをやったのは、日本で初めてでした。
それまで「性暴力」という言葉すらなかったわけですから。もちろん「性暴力」はあったけれど、それは公にはしてはいけない。女たちも、口に出せない「恥ずかしい」ことだという認識がありました。それが、「性暴力」という言葉を得て大きな声で堂々と、問題にすることができるようになった。80年代は、宮崎勤の幼児連続殺害事件、足立区の女子高生コンクリート殺人事件、本当に女にとっては辛い事件が重なりました。女たちが、「性暴力は許さない」と本気で怒って立ち上がったんです。
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●運動とサポート |
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ただ、その運動を通し、私自身は、運動とサポート、について考えることになりました。性暴力は許さない! と女たちが連帯して運動することと、実際の被害者に対してどのように向かいあうか。その問題にぶちあたりました。
女なら、ほとんど誰でも被害者、私だって痴漢にあったり、色々している。だから、女ということで被害を「一般化」していたところが私にはあったんです。実際に、STON90 には性暴力を受け、助けを求めて参加してきた女性もいた。そういう女性に対し、運動していた私たちは、「あなただけの問題じゃない」と、そういう風に耳を塞いでしまったのではないかと思うんです。
STON90は運動団体だったから、サポートグループではありませんでした。ただ、
今、考えると、運動とサポート、分けること自体がおかしいでしょう? でも、当時は、女が女をサポートするグループや、そういう考えが共有されていなかったんです。本当に。女たちが女をサポートしていくということは、まだ歴史が浅いんです。この10年の間にようやく定着してきたこと。
私は、あの運動を通して、実際に被害にあった女性たちの声に対して、向き合えていないんじゃないか、という思いを、今も、ひきずっている。だから、こうやってふぇみんにいて、記事を書いて、性暴力を問題にし続け、そして女たちをサポートすること。ここにこだわってやっていくことが、女たちとつながることになるんじゃないかと。虫のイイ話しかもしれないけれど、そう思います。同じ失敗を二度としたくは、ないんです。
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●男との関係
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自分のことを「フェミニスト」だとは、今もなかなか言えない。フェミニズムの本を読んだり、受け入れたことはあったけど、暮らしとイズムとはどうも一致しないんじゃないかな、というのが、ずっとありました。やっぱりリブの人って女にずっとこだわっていたから。女というのが、当時流行っていた言葉で言えば、「原点」だから。
「女」。女という性。最後まで残る「差別」です。そういう所から、そこの解放がないと、性の解放がないと、ダメなんだな、と。そこに私はこだわるんです。
男との関係? そりゃ、もう、つきあえなくなりますよ。観念的ですけど。男は止めようと思ったわけじゃないけれど、これだけ自分が女にこだわって運動しているのに、実際に男とはつきあえないよ。すぐむかつくわけですよ。同年代の男だからダメなのかと思って、年下の男の子に目を向けたこともあるけど、変わらない。つきあう男が悪いのかもしれないけれど。
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●女との結びつき |
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リブの世代の女は、選択的レズビアンが多いと思いかもしれないね。私もそうだと思う。ただ女のつきあいにパラダイスがあるわけでもない。モデルがないから未だに。これからできていくんだろうな。女どうしだから良いなんて言えない、もっと大変だったりするよね。お互いに楽でいい関係をつくりたいと思う。でも現実は苦しくなる。
だって、男と同じような関係しかつくれないところがあるし、それだったらしょうがないじゃない。
でも今はね、私、性を含めた関係をもつことに関心がなくなった。個々人それぞれとは思いますが、閉経すると楽だよ。年取ると、性欲ってだんだんとしずまっていくというか、ふぅっと消えていく感じ。それって寂しいことなのかなぁ、と思っていたけれど、実際になってみるとどうってことないよ。
今50代半ばでしょ、老後を少しずつ意識しはじめるんですよね。どんな生活ができるのかなぁって。いまはイメージするのは、1人で暮らして好きなときに、友だちと行き来する関係がいいなってね。昔の運動していた友だちとは年賀状程度だし、男はみんなほとんど結婚して、孫がいたりとか。今私の周辺にいる人は、けっこうシングルが多い。離婚した人も多いし。だから楽よ。
家族は、息子のこと、母のこと、何かすれ違ったままという思いは残る。母は今85才ですが、弟一家と一緒に暮らしているの。私と一緒に住むと思っていたんですけどね。弟の所に行っちゃった(笑い)。息子には、今も色々言われますよ。母親がフェミニストで、もろもろあるからね(笑い)。受け入れられないことがあるのでしょう。
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●「私たち」が生きる道 |
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私は、やっぱり団塊世代で運動をしてきて、若い頃は革命を信じていたでしょう。短い一時だけどね。だから「私たちは」と言う癖があるんです。ずいぶん前だけど「私たちは」と言ったときに、「私とあなたと一緒にされたくない」と若い女性に言われたことがあって。その時に、そうか一緒くたにはされたくないんだぁって。当然ですけど。言われてやっと気がついた。
団塊でベビーブーマーの人たちは、「私たちは」って、まとめたがるのかも。おなじ世代で、おなじような考え方を持つ人が多かったから。でも、それって、やっぱり、違うんだな、って。スローガン的な言葉がいつまでも生きちゃったのよ。女に「わたし」とルビをふるとかね。そういうの、どっかで画一化しちゃってる。
そういうのが、最近、たまらなくイヤになっちゃってきた。イベント企画しても、スローガンしか出てこない。周囲みても過去に運動やってございって女性たちは発想が貧しいように思える。とらわれているし。だから、画一化に毒されているのに気がついていない人たち見ると腹立ってくる。ことばだけは多様な生き方、多様な表現、多様な〇〇みたいなこと言っている。じゃぁさ、てめえたち、多様な生き方やってるのかよって言いたくなる。もちろん自分にもだけど。
社会的な運動をしろ、とは思わない。ただ、私たちの世代の女が、リブでせっかく受けてきた肯定感を、今の時代につなげることはできないんだろうか、ということはいつも考えています。
組織力も大事なんですけれど、私なんかすっごく、逆にね、運動の時にあんなにたくさん人が集まったわけじゃない? あんなに集まって。それでも、社会は変えられなかった、というところがあるの。じゃぁ、何人集まれば、どうやれば変わるのか? 1人1人が自立して変わるしかないの。自分の中で自分を自立して生きた時に、社会が変わる。そういう風にしか変わらない。平凡な言葉しか出てこないけれど、本当にそう思います。こういう考え、多分、リブからもらってるな、きっと。
インタビュー:バイブガールズ 構成:北原みのり
8年前、バイブを創り男性エロ雑誌を中心に取材を受けていた頃。私は聞かれてもないのに「私はフェミです。フェミニストです」とフェミを連発していた。それは私にとって「あたい、あんたら(男性誌)のオモチャにならないよ」という、子供じみた抵抗だったと思う。あんたらを喜ばせたくてバイブ作ってんじゃねーぞ、という心意気の発露のつもりだった。そうでもしないと「はい、エッチな顔して〜カメラ見て。ねぇ、ちゃんとバイブ持ってよ!」とレンズを向け、にやにやと笑いペンを走らせる男性記者たちに向かい合えなかった。
とにかく、男性誌の取材ばかりが続いた。うんざりしていた。だって私は女のバイブを創ったのに。女に使ってもらいたいのに! そんな頃。「ふぇみん」の牧田さんという人から電話が入った。「ふぇみん」という新聞で私を取材したいという。初めてだった。フライデーではなく、東スポではなく、アサヒ芸能ではなく、SPA! ではなく、女を読者にした新聞で、フェミっぽい名前の媒体からの、さらに女からの取材は! そのことが本当に嬉しかったことを覚えている。実際、その取材は、私が「フェミ」を切り札」に使わない初めてのものになった。
そうです。私は牧田さんに、すごく感謝している。私の前を歩いてきたたくさんのフェミたちと、私は牧田さんを通じて出会うことができた。女どうしで嫉妬しない、女どうしで闘わない、女どうしで助け合おう。「女」というだけで連帯はできないかもしれないけれど、女どうしならではの愛情と連帯を、私は牧田さんから感じることができた。第二回フェミドルでご紹介した小林万里子さんだって、牧田さんのネットワークで知り合えたものだ。
運動とサポート。アンチ・権力と実質的な活動。運動につきものの内部分裂や、矛盾、闘いを通して、牧田さんはそれでも運動の前にいて、女たちの動きを見守っている。牧田さんの闘い方を知る下の私たちの世代には、それではどんな闘い方が残されているのだろうか?
牧田さんは、「下の世代」への叱咤激励のようなことはしない。ただ、自分たち世代の反省と、自分たち世代がどう動くのか、ということを最後まで口にされていた。そういうことも含めて、闘ってきた女の世代なのだろう。国会の前に立ち、運動の前に立ち、女と横に並ぶ牧田さんの闘い方。牧田さんのスッとした立ち姿の後ろに、自分がいることを、私は改めて気が付くのだ。
取材を快く受けて下さって本当にありがとうございました。
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