[2003/07/10]


●「大卒男子」の壁の前で

子どものときからね、あらゆる映画を観ていたんです。でも、子どもながらにね、あ れこれはおかしいな、って思うことがあったんだよね。だって、映画の中の女って、 妻か母か娘か娼婦の四つしかないですよ。これがいくら名作だ巨匠だと言われている、 小津(安二郎)にしろ、溝口(健二)にしても、ぜんぶそう。

自分を思っていても、母をみても、となりのおばはんをみても、まわりをみても、こ んなスカシた女はいない。日本の映画の中で、女性に対しての間違いが生じている。 どうしてかな、と思ったときに、女性の監督がいないということに、気がついたのね。 そのころ、女性監督として存在してたのは、田中絹代しかいなかったし、あまり流通 してなかったしね。

だから高校出たとき、どうしても映画監督になりたくて、東京出てきたんですよ。 1967年ね。当時は映画監督になるためには、東京の映画会社に入社しなくちゃいけな かった。サラリーマンにならなくては監督になれなかったんですよ。ところがさ!  入社条件は「大卒男子」。これが当たり前だったの。愕然としましたね。大卒という のはどうにかなるけど、男子というのはどうにもならないわけです。女がなれない職 業があって、たまるか、と思ったわけですよ。こうなったら、意地でも、なんとして でも、監督になろうと思って、腹をくくりました。

●男根主義 ピンク映画への道

周りを見渡したら、私を入れてくれるのはピンク映画しかなかった。当時はピンクが はじまって、7,8年しかたっていなかった頃。ピンク映画自体も試行錯誤していた んだよね。日活がロマンポルノに手をつける前だから、まだまだ差別されるジャンル だった。差別されている場であるから、もぐりこみやすかったのね。

初めて助監督をやったときには、そりゃもう、びっくりしましたね。 当時のピンク映画は、レイプばっかりだったね。数人の男が女を追いかけ、 服をはぎ、犯す。ところがですね、レイプして、一分もしないうちに、女は喘ぎだし、 気持よくなる。これがピンク映画の常套手段。決まってるセリフは「ほらほら、気持 ちよがってる〜!」(笑)。

当時はね、若松組(注)とか若い人たちが反体制の旗印の中で結びついて、ピンク 映画がその象徴だった時期だったのね。でも、反体制たって、これこそが男の世界よ、 私にしてみれば。どっちにころんだって、結局は、男根主義。男のチンコはそんなに エライものなのか! ってね。反体制で旗を振っている男どもも、最終的にはつっこ めば女は感じるんだよ、っていう映画しかつくらないもん。

私も、ここにいていいものか、こんな映画に参加していいのか、って、そりゃぁ葛藤 しましたねぇ。でも、ここで逃げ出したら、大卒男子の壁にはさまれて、私は映画が できなくなる。今でこそ、監督になりたい女たちは海外で勉強したりできるけどさ、 なにせ私のときは、海外旅行が自由化される前のことだったから。海外に行くことす らできない。八方ふさがりの中で映画監督になるためには、どんな目にあおうとも、 映画監督としての技術を身につけるしかない。

そこに生きるしか、なかったのよ。たぶんね、日本の女性監督のなか、現場の中で泥 のなかをはいずりまわって、はいあがってきた女監督は私しかいない んじゃないの? 他の方、みんなお洒落ですからね(笑)。

●大ヒットした 初監督作品

22才で初めて監督になって創った作品は、『17才好き好き族』(笑)。 ピンクのタイトルは私が決めるんじゃないよ。配給会社が決めるのよ。

その時に主演したのはインド人のハーフの 女の子。その子を歌舞伎町で探してきて、人種、若さ、女、ということで差別されて きた彼女の過去と母との葛藤をね、男の身体を利用して、自分が処女を捨てることによっ て、新しい第一歩を切り開いていく、という設定にしたの。

もちろん、女なんかにピンクは撮れない、女に男のことは分からない、さんざん言わ れたけどね、この映画、大ヒットしちゃったんだよね。

男が撮るピンクってね、絶対に、女を差別してるのよ。男の心情だけ。だからさレイ プして殺しちゃうとかさ、男の情熱や、男のわけのわからない思いをみたいなものを、 女のカラダにぶつける、ということばかりやるんだよね。くだらない、バッカじゃねー の、って思うよ。

そこに私が、女のカラダはきれいなんだ、女のカラダはすばらしいんだ、って、そう いう手法をピンクに持ち込んだからね。女のカラダをなめるように、撮ったの。これ は逆に言うと、女のカラダが、お尻が、股間が、大スクリーンで登場した初めてのこ とだったわけですよ。男の客は喜びましたねぇ。今まで、引いた画面で、レイプした り、けっ飛ばしたりしてたピンク映画だったのに、スクリーンの中で、乳首のクロー ズアップまで、見れたんだから! この迫力に、男性客が飛びついた。

女の子も積極的なキャラクターにしましたからね。女だって、ただ股広げてるんじゃ なくてさ、男の全身を舐めまわして、愛おしめばいいじゃん、って思うから。映画の 中ではフェラチオシーンも入れたの。ピンク映画の中で、フェラチオを表現したのは、 私が初めてでした。

●一生、ピンク映画で生きてやる
もちろん、22才だったからね、大変でしたよ。何が一番大変だったのか、というと、 スタッフが全員、年上の男だったということ。スタッフの心の底に、なぜこんな小娘 の気持ちをきかなく ちゃならんのか、という思いが絶対にあるわけですよ。 私が現 場で指図すると、一応、その場ではみんな我慢するんだけど、限界が来るんですよね。 例えば、昼 食のときに、「佐知、お茶!」、と言う男がいるわけだ。そういうアホ みたいなことをしなけ れば、精神のバランスが取れないのね、男って。

映画の監督の一番大切なのは、リーダーシップをうまくとること。 リーダーシップ を取るのに、どうしたらいいか、ということを、ずっと考えて仕事してきた。 30才 で自分の制作会社をつくったのは、自分が育ててきた若手の技師たちと独立できる素 養ができていたことと、もしかしたらピンク映画というジャンルは、女が性とまとも に向かい合える、 たった一つのジャンルじゃないかと思うことができたから。 もし 性を自分のテーマ、表現するものの 中心に据えるのであれば、なまじ一般映画の中 でやるよりも、この場でやった方が、 きちんと表現することができるんじゃないか、っ てね。

今までのピンク映画になかった表現を、私自身は、日本の女たちの 性を、女に送り たいって、心から思った。腹くくって、女のセックスってこうなんだっ て、言った るぞ、と思ったんです。私は一生、ピンク映画で生きてやるって。30才で独立。それ から、300本以上に渡るピンク映画を撮ることになったんです。

●時代が映し出す、性

映画って生ものなんですよ。ピンク映画は非常に時代に左右される。性そのものが、時代を生きているものだから。

毎年毎年、日本の女性の性意識だって、変わっていく。性のありようも変わっていく。そういう時代の性の中にいて、ナニを切り取っていくかが私の仕事。それをあくまでも女性側から撮る、女性を主体にした性を撮る。時代をきちんと見据え、今の女たちが性をどのように意識しているのか、どのように受け止めているのかを捉えたい、という意識が常に私にはあるね。

毎年毎年私は年をとるけれど、私の前で、映画に出演してくれる、女の子たちは絶えず、18から21くらいの女の子たち。彼女たちと、仕事をすることによって、若い世代が性をどう考えているのか、何を考えているのかキャッチすることができてきたんですね。それにしても、80年代から、女の意識の変化は凄まじく、変わりましたね。

●80年代 淫乱系AV女優との出会い

80年代初等くらいまではピンクに出てくる女性たちは、女がハダカになるなんて、はしたないことだと思っていましたね。誰も喜んでなんかやらない。でも有名になるため、お金になるため、と自分も他人も納得させて、出てきた人が多い。ところがね、私はアダルトビデオが嫌いだけど、よかったのは、アダルトビデオに出てくる女の娘たちって、全然、それまでと意識が違っていたんですねぇ。


ちょうど80年代。女の子たち、第一次淫乱系、豊丸とか沙也加(注)とかね。日本の歴史が、どうしても踏み越えなかった、女性の性のハードルをね、軽々と飛び越えてきたんだなぁ、と思いましたねぇ。すごいエネルギーだった、あの娘たち。この子たちが いれば、私は自分のテーマを全面テーマを展開できるんじゃないか、と思うくらいに 嬉しかった思った。

あの頃はね、女側からのエネルギーの発露が確かにあったんです。女がセックスして 何が悪い、人前でやって何が悪い、っていう、押さえつけられてきた分だけ、マグナ のようなものが、確かに手応えとしてあった。 「私、芝居をやるけど絡みなんかできない」という女優たちが多かったなかでね、彼 女たちは、「私、芝居はできない、でも絡みはまかせて」って言い切る娘たちだった んですよ(笑)。

豊丸をさ、淫乱なんだかんだと言いながら、差別しして非難してているのは男でしね、やっぱり。彼女に言わせれば「どうせやるならイくまでやる」って言うんだよね。気持ちいい。セックスはなぜ恥ずかしいものなんだ、今までのからを壊して出てきたという意識を持っている人たちが出てきた。初期のアダルトビデオを支えていた女は本当に、本当に面白かった。


まぁ、それ以降、AVが商売になるとふんだ男たちがやってきて、管理しはじめた。女の子も管理されて、いわゆるお金で脱いで、ということになってきた。そういう意味では、もう、私は、アダルトのオンナの人たちともあわないし。彼女たちと映画を創ろうとは思わないけどね。

●浜野佐知はえげつない

仕事は本当に楽しかったですねぇ。あなた、私に戦いの歴史を期待してくれると思うんだけど、実際はね、ただただ楽しかったのよ、ホント。自分で制作会社をもって、自分がリーダーシップをとってね、たとえピンク映画であっても、好きなものを好きなように撮れるという、ストレスのたまらない作品づくりは楽しい。


男の監督連中なんてさ、ピンクを足がかりに、一般映画に行きたい、と思ってるのばっかりよ。行ったら戻ってこない。私だって、30年やってるなかで、そういう誘いがなかったわけじゃない。じゃないけれど、一般映画に行ってさ、また最初からわけの分からない男のプロデューサーの言うことを、我慢して聞かなくちゃいけないのかよ、と思うとねぇ。一般映画の監督になったからってなんぼのもんじゃい、って思いがあるのよ。


だとしたら、たとえ、女に届かなくても、自分がこうだ、と思った、自分の一生のテーマのセクシュアリティを映画をとった方が、自分の精神衛生上いいだろう、と思った。はい、次、はい、次。あれやろう、これやろうってね。ピンク映画ってね、3日でつくるの。年間25本くらいやる。とても身軽に、やりたいこと、表現したいことができる分野なんだよね。テーマだけではなく、技術的にも、表現してみたいな、ってことをやれちゃうのよ。


私の売りはね、表現のえげつさ。男には撮れないのよー。女をばかにしていつつ、女に照れちゃうからだね、きっと。舐めるように私は女を撮るからね。ピンク映画で浜野佐知というと、百人が百人がえげつない! って言いますよ。ふふ。男の監督は、ほんと、だめよ。

四天王(注)? あいつら、バカばっかだけどね。ろくなもんじゃない。セックス否定してるじゃん。内面の表現の手段として話しているから、ホントあいつら、ばっかじゃねーの、と思うんだよね。だってね、あの人たち「男の背中が泣くような映画を撮りたい」とか言うんだよ。バカ言えよ、私たちが創ってるのは、ピンク映画なんだよ。あいつらに言わせるとさ、PGとかいう雑誌で、ピンク映画をダメにした極悪人ということで、私の名前を出してるの。浜野佐知のおかげで、僕たちは、内面をとりたいのに、外面的な性行為ばかりがのぞまれるようになった。あいつらに、プロデューサーは、浜野作品みたいなのを撮れって、言われるらしいのね。だからさ、浜野佐知のおかげで、ピンク映画がダメになった、俺ら好きなもの撮れてたのに、って言ってるらしいよ。(笑)

●ガマンできなかった悔しさ

1997年の東京国際女性映画祭、というのが毎年あるんですが、その記者会見でね、日本の長編劇映画の女性監督で、最多本数は、田中絹代の6本だって、そんな公式記録が出たの。それ聞いて、ブチ切れましたね。私の30年はどうなのよ! って。で、 その時に、あ、やっぱり差別されているんだ、と思った。

そういう発表があって、つくづくショックだったのと、やっぱり考えたの。 今まで楽しいからピンクの中でやってたけど、もしかしたらぬるま湯につかってただけじゃない? このまま終わったら、日本映画史に名前が残らない。名前を残したい というわけじゃないけど、日本に女性監督が存在したんだ、最初の女性監督になるんだ、大卒男子をはねかえして、最初の女性監督としてやってきた私の人生が消される、ということが私にとって、我慢できなかった。だったら、必ず、この人たちが言うと ころの、映画とやらを一本とって、この女性映画祭に出すぞ、と思ったのが最初です ね。

●ゆがめられた尾崎翠

何ををやるかを考えたときに、尾崎翠(注)の作品が好きだった。どうせやるんだったら、誰も知らない、だけれども、女性として自分たちの先輩として、人生を生ききった人に私は焦点を当てたい。で、尾崎をやろう、と思ったの。

まず、取材から始めたんです。そうしたらね、渡辺えりこさんが一回舞台でやっていたんだけどかなり前で、ビデオを残していなかった。もう1つ、「29才」というタイトルでNHKの二時間ドラマで尾崎翠を扱っていた。田中裕子が主演。「29才」というタイトル通り、30を前にして、結婚を焦るオンナの話になってしまっるのよ〜! 危うい心の移ろいみたいなのがテーマなのよー!(笑) 

一番腹を立てたのはね、尾崎翠の恋人が、なぜかさ、ドラマの中で憲兵になっててさ、ほんとはただの劇作家なのにさ、でね、男から別れ話を切り出すと、尾崎翠が男の足にしがみついて、足に、頬をすりすりさせる、いかないで、って。私は怒ったね。怒りに燃えたね。なんたるこっちゃ、これは! 
尾崎翠の作品は素晴らしいんですよ。ものすごくドライで、人間の感情をぶったぎって、頭で、論理で構築しているんですね。いわゆる自然主義的な、林芙美子みたいな自分の男がど〜したとかさ、今の柳美里みたいな、命ぃ、みたいなあんな駄作を書き垂らしてるわけじゃないのよ。その尾崎翠を、こんなバカな風に演じられてはたまらないと思ったわけです。

なぜ、こんなドラマが創られたかと調べていくとね、いながきまさみという人が監修しているんですよ。彼が尾崎翠をこの世に出した編者。全集を出してるの。この男がとんでもないのよ。例えばね、全集の最後にこの男が書いてるんだけどさ、「尾崎翠は、74才で死ぬときに、このまま死ぬのはむごいものだねぇ、と大粒の涙をぽろぽろとこぼし死んでいった」というようなことを書いている。

確かに尾崎翠は、34才でミフレニンという頭痛薬の中毒症状で幻想を観るようになって、田舎に連れ戻されてるの。でも、彼が言うように、鳥取にいた40年、無為な人生を生きた薄幸の女性とは思えない。私は、これは違う、って思った。尾崎翠は、今読んでも新しい人。これだけの作品を書いた人が、そんな人生をおくるはずがない、って。

でね、なんでこんなこと書いたのか、いながきに会いに行ったのよ。それがね、このクソオヤジがさ、こう言ったの。「女のクセに結婚もできなかったんだから、幸せであるはずがない」って。「あなたはどうして、書けなくなったと、結婚できなかった、と思うのか。本人の意思で書かなかったのかもしれない。結婚しなかったのかもしれない、とは考えないのか」って聞いたの、そうしたらね、こう言ったよ。「あんな顎の貼った女は性欲が強いに決まってるから、男がいたら、もうすこしましになったはずだって」このクソがきゃ!!!! 何が何でも、尾崎翠の人生を描きたい、私自身が彼女に出
会いたい、と強く思いましたね。

●尾崎翠と出会いたかった

映画(注)を創るのには1億近くかかった。文化庁から2500万円、女たちからの支援が1200万円。それでも足りなくて、保険金やらなにやら全て解約して、お金創りました。あんなオヤジに私物化されたらたまらん、って思ってたからね。ちょうど、尾崎翠を女性側から再評価する、ということが、女性側から起きてきた。小倉千加子さんも書いていたし。


あの映画でね、私は、私が尾崎翠と出会いたかった。自分自身を生きて生き抜いた職業人たちを立たせ、今の日本を生きる私たちが時間と空間を越えて会いたかった。尾崎みどりたちが一番輝いている時を、あるひとつの時間と空間を共有したかったから、砂丘で笑い、語り合いながら歩くラストシーン。あれはどうしても必要なシーンだったんです。


それでも、あのシーンをどうしても撮りたいんだけど、ヘリコプターが必要でしょ。ヘリコプターを借りるのに、一分一万円かかるの。鳥取にないからね、四国の高松から飛んでくるのに30分かかる。帰るのに30万、40分撮影しても100万ないとワンカット撮れない。お金ないんですよ。現実的にお金がない。東京都女性財団、文化庁とかいろいろあるけれど、それにしてもお金がない。ヘリコプター呼べない。明日チャンスを逃したら、どうしよう、というところで、あーどうしよう! と思って、銀行に行ったら30万円増えている。100万には届かないけど、80万になったので、値切り倒してヘリコプター呼んだのよ。


その時は分からなかったけど、その30万円、吉行和子さんから振り込まれていた。東京に戻ったら、吉行さんからメッセージがあってね、「監督の情熱に打たれました、このお金を使ってください」。私ずっと、ヘリコプターヘリコプターって悶えてたからねぇ。(笑)


吉行和子さんとは映画の前に面識なんかありませんよ。もともと私なんて、
何もないから、怖いもんなしよ。突然吉行和子の事務所行ってさ、金はない。これしかない、出てくれるか、吉行和子に聞いてくれって! ってシナリオおいて帰ってきただけだもん。

●シスターフッドで創られた映画

主役の尾崎翠は、最期まで誰にしようか迷いましたね。みんな色んな事を言う。吉永小百合とか、岩下志摩とかさ。白石(加代子)さんの名前は出てこなかったですね。

あの日、ちょうど岩波ホールで忘年会があったの。酒飲んで酔っぱらって帰ろうと思ったら、エレベーターからね、髪の毛ぐっちゃぐちゃの、スエット着た、足の短い小太りのおばはんが出てきた。「あ、尾崎翠だ」、って思ったの。顔が似てるんですよ、白石さんと尾崎翠。

で、オバサンのスエットつかまえて、「すいません、私の映画に出てください」って言ったらおばさんが振り返って、「私も一応事務所があるのですから」、と言った。私、その時点でも誰か分からなかったんですよ。掃除のオバサンかと思ってたから。でね、私、名詞出したんですよ。そしたら「私、今、名詞ないんですけど、事務所の連絡先書きますからって、」私の名刺の裏に書いてくれたの、白石加代子って。たまげちゃった、私。あら、これ、大変なことしちゃったって。

それからストーカーのごとく、つきまといましたね、白石さんには。白石さんだって、二年先までスケジュール埋まってるっていうし、映画には出したくないって、みんなに反対されていた。でも、白石さんはね、尾崎翠の脚本を読んで、こういう女性をやれるんだったら、5月に二週間だけ、2年に一度のオフがあるので、パートナーと、温泉に行こうと思ってたけど、これを当てる、って、これに出る、と言ってくれた。事務所も休みだから、文句言えないじゃないですか。

白川和子、宮下順子はね、ピンク映画の助監督やってたときの友だち。2人ともロマンポルノで売れましたけど、ピンク映画の大スターだったんですよ。ピンク映画を撮るノウハウのなかった日活が、札束をひっぱたくようなまねをして、私たちの仲間を連れてった。私にも誘いがきたけど、そのやり方がどうしても許せなくて、ピンク映画に残ったんだよね。白川と宮下は「私たちは日活に行くけど、佐知が映画を撮るときがあったら、出るからね」と言ってくれてたんだよね。お願いするものがなかったんだけど、30年前の約束を覚えてるかな、と思ってたけど、覚えてくれて、「セリフなくてもでるわよ」って言ってくれてね。


あの映画はシスターフッドというか、女性たちの協力でできたんだ、と思った。私の人生、捨てたもんじゃない、と思いましたよ。本当に。

●女たちが語り出す、自分たちの性

日本映画の中であれを上映するのは難しいことで、で、結局は、自分でフィルムをかついで、全国の女性センターをまわっていた。まわっているうちに、面白い現象が起きてきた。

たしかに、尾崎翠のファンとか研究者は大事にしてくれるけど、普通の一般の人からみると、分けがわからない、というのが正直な意見だと思うんですよ。でも面白いことが起きてね、映画よりも私の経歴「ピンク映画300本」ということに反応する女の人が多かったんですよ。ピンク映画を観たことないけど、観てみたい、という女の人が多かった。

映画の後のディスカッションの後にね、尾崎翠の作品論よりも、自分の性的な問題を私に向かって話し出す人がいたんだよねいかに、私が豊丸世代が80年代頭に性のハードルを越えたといっても、今中高年の子育てが終わったあたりの女の人たちが、性の問題に直面している子どもたちを抱えている女性たちは、やっぱり、社会が取り決めた性の中から出られないだな、ということが実感として分かった。


こんなこともあったな。山形の小さな映画館で繁華街から離れたところにある、100席くらいしかない映画館。そこの女性の支配人が、女性限定でピンク映画を観る会、というのをやった。私の映画を2本かけた。ピンク映画は1時間ですから、7時から、2時間で、やることにした。その後で一時間のトーク。


失礼ですけど、こんな田舎で、繁華街から離れたところで、誰がくるか、って思ってたら、5時くらいから18才から74才くらいまで、あっというまに100席いっぱいになって、補助席出しても間に合わなくて、とうとう立ち見で、ドアをあけっぱなしにした。それだけ、性的なものを観たい、ということと、女性限定という安心感、ピンク映画館ではない映画館という3つの条件があいまったと思うんですが、とてもすごかった。


見終わった後にディスカッションでね、「監督の映画はからみになると喘ぎ声ばっかりでつまらない、愛しているよ、と言われたい」とか言う人がいて、で、それに私が答えようか、と思った瞬間に違う方向から「はい!」と手があがって、「そんなものはいらない、私はセックスに集中したい!」というような発言ができた。私は何もしゃべらないのに、あっちこっちで声がでて、9時に終わるはずだったのが終わったのが結局、夜中の3時まで(笑)。女たちとずーっと、セックスの話してたんだよね。次は絶対に、女のエロチカをやりたい、と思った。

●百合祭、年寄り女のセックス

そんな時に「百合祭」(注)を読んだんです。正直、本の内容よりも、作者のコメントが面白かった。札幌で、猥談しているおばあさんたちがいた。酎ハイ飲みながら、猥談話してるんだって。そのエネルギーにおされて、この小説を書いた、という話。現実にいるじゃねーか、そういうばあさんが!

今の日本で、年寄りモノ、といったら、だいたい介護、福祉だけ。ぼけてるばっかが年寄りだ、という話しじゃん。元気なじいさん、ばあさん、というのがいる。これに性をからませたら、ヘンタイじじいが若い女のカラダをいたぶる、という谷崎潤一郎になってしまう。

やっぱりさぁ、きちんと70になっても80になっても、女が性と向き合い、それがちっとも恥ずかしいことではない、というのが私のテーマ。
ただ、「百合祭」を読んだとき、確かに面白いけど、このまま映画にしたら男と女の対幻想のなかに、女は一生、閉じこめられてしまう。年をとったことの自由さというのは、もはや生殖から開放されて、男と女の対なんてもんは蹴散らすことにあるのよ。

原作では、男がが鏡に向かって「僕たちはいつか年を撮るんだ」ってくだらないことほざくわけです。あそこで、終わるの。だからオリジナル(注)の部分をどうしても創らなくちゃいけない、って思った。


百合祭と出会ったときに思ったのは、これは絶対男の監督に撮られたくない、ということ。これだけは男に撮られたくない。男女の修羅場になっちゃうんだと思うわ。一人の男を女が取り合う。男がとったら絶対にそうなる。男を取り合うんではなくて、男を共有する。自分が気持ちい肉体的快感を得るために、男を共有する人たちもいる。

三好さん(主人公の男性・映画ではミッキーカーチスが演じる)をうまい具合にセックスを楽しむ。自分たちにとって何が一番気持ちいいのかを求めてすべてのくくりから解き放たれて、快楽を求めて生きていく女を描きたかった。

●老いることを怖がらない女優たちと

現場がね、面白くてねぇ。楽しかったですねぇ。実は、この映画に出演するのに、吉行さんの事務所はとんでもない、って言ったけど、吉行さんがどうしてもやりたいって言ってくれたのね。誰かのお母さん、誰かのおばさん、ストーリーには必要だけど、固有名詞のない役割ばかり。73才で一人の女性として、きちんと光のあたるこういう役というのが本当にないのでやりたい、と。

「絡みありますよ」というとね、「もう公私ともに最後の濡れ場だと思ってがんばるわ」と吉行和子さんが言ってくれた。「私の方も頑張ってくださいよー」って言ったんだけどねぇー(笑)。

日本の映画界というのは、ああいう女性を使いすてにしている。年を取っているというだけで、こんなバカな話はないですよ。吉永小百合みたいに、性的なものがまったくない人が、男たちにとっては、ずっとアイドルでいられる。もののみごとに性というのが、そこから抜かれてしまっている。

この映画で、とても嬉しかったのはね、この女優たちは、誰一人しわ一本、整形してないってこと。日本の女優って、みんな顔突っ張ってるじゃないですか。誰一人としてやっていないことがすごい。老いることを怖がらない人たち。だから、こういう楽しい映画ができたんだと思う。本人たちが本当に老いることを怖がっていない。老いている自分がそのまま映画にうつされることに、腹をくくっている人たち。いつまでも若く美しく女優にみられたいという人たちではなくて、素でみせたい、という希望を持つ人たちが登場している。


キャスティングで困ったのが、三好さん役でしたね。こんな男、日本にいるわけない!  って感じでしょ。いろんな人に面接したんだけど、みんな偉そうでね。俺は男だ、みたいな、人ばかりで。TTなんてさ、私に「詐欺師の役をやらせるんですか?」と言うんですよ。この役を詐欺師としかとられない。OMもすごく威張ってたし。それにこの役って、枯れてるわけじゃないけど、勃たなくて、暖かくて柔らかい感じを持つ男だからね。OMだったら生々しいというか、オチンチン、勃ちそうじゃない?  まだ(笑)。ミッキーさんは、この役を、「私は危ないフェミニストですね」、と言ったのね。ちょっと違うんだけど、まぁ、詐欺師よりはいいいわよね(笑)。

●女が映画をつくる

次に撮りたいのはね、「1000年のセクシュアリティ」です。要するに、日本の女の性がこんなに窮屈になったのはこの100年くらい。近代のさ。
一夫一婦制が諸悪の根元だからさ。日本の女性のセクシュアリティが歴史の中で変化してきた要要を表現したい。レズビアン、男女の恋もあるし、年代もいろいろでてくるし。日本の女性の性が歴史の中で転換してきたポイントを描いていきたい。

もう一つは、文芸路線第二段。尾崎翠につぐ、紅吉と、湯浅芳子の二人をやりたい。、岩佐は宮本百合子と8年間、一緒に暮らした。紅吉はらいてうとそういう関係だったでしょ。あとは田村俊子を絡ませてやりたいんだよね。

いつだって陽が当たるのは、平塚らいてう、女の鏡! みたいなのって、ぜんぜん面白くない。スカートを最初にはいた、日本で最初にレズビアンをカミングアウトしたロシア文学者の湯浅芳子、彼女にスポットを当てたいの。でもまぁ、お金がかかりそうなんでねぇ。

フランスのクリティーユという、映画祭があるんです。レズビアン・フェミニズムを二本柱にして、30くらいやっているんですが、まわりの目が、フェミニズムに対してバックラッシュが起きている、という状況がある。全世界的にそういう状況があるんですね。


現実に日本の映画関係者のなかでも、女性映画祭はいらない、という女性たちが多い。2、3日前に、若いビデオ作家と会うとさ、監督の世代は古い、って言われるんですよ。フェミニズムなんて言われたって、アタシたちは好きなもんを取るだけだ、って言うからさ、カチンと着ちゃってさぁ、あんたたちがあんのんかんのんしていられるのは、私たちの世代が頑張ってきたことがあってやってきているんだ、と言って、みんなにどうどう、といわれたけどさ。


「映画には男も女もない。いい映画か悪い映画しかない」とかほざくやつがいるんだよ。じゃぁ、あんた頑張って映画つくってごらんよ。男に1億でても、女に3000万しか出さない、っていう壁があるからさ、ホントに、あんた自分で体験してみろ、って。

女と男はさ、スタートラインが違うんだからさ、何がいい映画か悪い映画かだなんてさ、ふざけんじゃねーっつーの。

●気持のいいセックスを女に

フェミニズムは古い、とか言いたくない。私はフェミニストだと自分で思ったことはない。悪戦苦闘してた、監督時代にそういう運動はなかったし。リブがいたけど、私はひいちゃってたよね。孤立無援でのたうちまわっていると、組織で集合体で動くってことに、慣れていないから、好きにもなれないってのがあるから。自分一人でのたうっちゃう、タイプなんですね。だからリブの時も参加しなかったし。私とフェミニズムは結びつく接点はなかったかもしれないけれど、やってきたことをそういう風に評価してくれるのであれば、まぁ、そういうことなんだろうな。

私はひたすら、気持ちのいいセックスを女にしてもらいたいの。こういう現場にいるとさ、女の子は、絡みだけ、喘ぎ声だけは巧いよね。ふだんのセックスで演技してるからだよ。そういう芝居だけはできるんだよね。私はね、本当に気持ちのいいセックスをしようよって、女の子にいいたい。本当はさ「ね、本当に男でいいの?」 という基本的な疑問の投げかけも持ってるんだけどね。ふふ、だって、私自身は、本当に気持ちいいセックスは女としかできないと思ってるからね。ははは。

(インタビュー:バイブガールズ/構成:北原みのり)

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

注:若松組 1960年代から'70年代、全共闘、学園闘争の熱い時代にピンク映画監督として若者に絶大な人気を博した若松孝二監督率いるグループ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




(注)80年代AV女優。激しく喘ぎ、強い性欲を剥き出しにしたその演技が話題に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





(注)ピンク四天王:80年代後半のピンク混迷期にデビューを飾った佐藤寿保・サトウトシキ・瀬々敬久・佐野和宏の4名の監督。濡れ場が少なく、芸術系の作品を得意とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




(注)昭和初年代に「第七官界彷徨」や「こほろぎ嬢」「歩行」などの傑作を発表後、突如、日本文学史からふっつりと姿を消した幻の作家。1969年の、新機軸の文学全集に「第七官界彷徨」が収録され、その時代を越えた風変わりな作風が、新鮮な衝撃を与えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



(注)1998年『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』を自主製作。同作品は、日本芸術文化振興基金・東京女性財団の助成を受け、鳥取県及び日本全国から1万2千人を超える女性達の支援を受けて完成する。
同年、第11回・東京国際女性映画祭への出品を皮切りに各地の映画祭で上映し、日本インデイペンデント映画祭で林あまり賞を受賞。
(キャスト)
白石加代子 吉行和子 ほか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 










(注)白石加代子
日本を代表する舞台俳優。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注)著者:桃谷方子(講談社)1999年北海道新聞文学賞受賞作品。69歳から91歳までの女性たちと、79歳の男性との色恋物語り。

 

 

 

 

 

 

 




(注)吉行和子が、耳たぶをつまみ、・・・・レズビアンの関係を匂わせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注)湯浅芳子 ロシア文学者(明治29〜平成2) 昭和初年に作家宮本百合子とともに民間女性として初のロシア留学を果たし、 帰国後、数多くのロシア文学の翻訳を世に送り出す。戦後、 湯浅訳によるチェーホフの『三人姉妹』や『桜の園』、ゴーリキーの『どん底』、 マルシャークの『森は生きている』などがくりかえし上演され、演劇の世界にも大きく貢献。

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