VOL.52 「ゲバ子ブルブル厚生労働省闘争記―最終編・ゲバ子の障害持ちのマンコ持ちへの思いーえ?リブはこうやって生まれた?の巻」


アジ原ゲバ子にございます!! 風の中に春の匂いがまじりつつある今日この頃、皆々様、いかがおすごしであられましょうか??

ゲバ子ブルブル闘争記、いよいよ最終章である。
あの酷寒の中、カラダの芯からのブルブルの震えを押さえることができないまま、厚生労働省に働く黒い能面集団とのにらみ合いを続けたわけである。全国自治体の担当部長級会議が開かれ、厚生労働省の決定をあとは実務レベルに落とすのみという日の3日前に至っては、障害者団体の申し入れを一向に汲み入れないことに抗議するため、電動車椅子を中心に厚生労働省の出口という出口を一斉にふさいだのであった(夜7時頃)。  

さて、そもそもなぜゲバ子がこうやって障害持ちの人々と厚生労働省に行ってまでブルブル闘争をしたのであろう??

  それは、親元でもなく施設でもなく、ゲバ子の周りでゲバ子の住む地域で、当たり前に自分で自分の生活を作っている障害持ちの人たちの「いのち」と「せいかつ」の危機であり、ひいてはそれはゲバ子を含めたその人たちを支える介助者たちの「せいかつ」の危機であるからだ。しかし単なる「リストラ反対!!」ってなスローガンであったら、「いのち」削らん思いをして立ちつづける障害持ちの人たちと同じように、「いのち」削らん思いをしてブルブルしていないであろうと思われる。しかるに、ゲバ子の魂は「ゲバ子の悦びを奪うな!! 一緒に生きていきたいんだ!!」と叫んでいる。その「悦び」とは------

上野千鶴子さんの本の中で(「フェミニズムから見たヒロシマ」家族社2002年)こういう文章を読んだとき、ゲバ子は「そうだ! これだ!」と思った。

「フェミニズムはあくまでもマイノリティの思想であったと私は思っています。マイノリティというのは、この世の中でワリを食った、差別を受けた、弱者の立場に立つ人々のことです。フェミニズムは『女も男なみに強者になれる』と主張してきた思想ではなく、『弱者が弱者のままで尊重される思想』だったはずです。私はもちろん腕力では男にかなわないかもしれない。私は自力でいきていけないかも知れない。けれどなぜ、だからといって、私が力づくで、他の誰かに従わされなければならないのか。」

そうなのだ。
ゲバ子はマンコ持ちだ。腕力はチンコ持ちに比べたら弱いだろう。かなわないだろう。
孕む可能性のある性だから妊娠も、中絶も、出産もあるだろう。産まないかもね。ブスだよ。オナニー好きだよ。結婚しないよ。
で?? だから何なんだ??
だからって、ゲバ子のココロをカラダを侵略し、ひいてはゲバ子の心地いい空間を汚すことは断じて許さぬ!! 我が性解放の道への邪魔立てに関しては徹底して抗戦する!!
そう、ゲバ子のフェミは「弱者は弱者でいいじゃーん」ってな開き直りからくる、底知れぬマンコパワーと笑いから成り立っているんであった。

そして、ゲバ子に縁のある障害持ちたちに、ゲバ子がとっても惹かれるのはまさにこの一点に尽きる!! 自分で着替えできないよ。トイレだって行けないさ。ご飯だって食べられない。 でも、だから何?? だから何なんだ?? だからって施設に行け、とか親元でおとなしくしろ、なんて冗談じゃあねえ!! ってな「弱者は弱者さ。だから何が悪い??」ってな開き直りからくる、「人生をとことん楽しんでやろうじゃあないの!!」っていう底知れぬパワーと知恵と笑いが、ゲバ子のフェミとむちゃくちゃ響きあうんである!!

そしてゲバ子の周りの障害持ちのマンコ持ちに至っては、 子供を産んだって一人じゃ育てらんないよ。障害もちじゃない女基準の「美」からは外れるさ。 だからって何?? だから何なんだ?? だからって、なぜいつもいつも専門家に代表されて一方的に語られ、医者に興味本位に検査され、産婦人科医には「できてます。堕ろしますね??」といわれ、施設の男職員にはみんなの前で真っ裸でカラダをふかれ、同じ障害持ちのチンコ持ちから「女は黙れ」と言われ、障害持ちのチンコ持ちの「性」ばかりが肯定されなければならないんだ?? 冗談じゃねえ!! 私は私!! 私のカラダは私のもの!! ってなかんじである。

そして、ゲバ子の中のフェミとの響き合いをたどって、障害持ちのマンコ持ちたちの生活に関わっていくと、ゲバ子の中の「健常者」基準の考えやスピードなどに気づかされていくのである。

例えば・・
ある障害持ちのマンコ持ちとそのパートナーの人と新宿へ行くと、運動障害のある彼女がゆっくり歩くと後ろで舌打ちをされる。パートナーの人は電動の車椅子なのだが人々は自分の目線の高さから目をそらさずにスタスタと歩いてくるので、彼にドンドンとぶつかってくるのである。彼は新宿の道を行く間、ずっとずっとベルを鳴らしていた・・。

でもきっとゲバ子も一人でここを歩けば、このスピードと目線で街を闊歩するにちがいないし、駅でもさっさか歩いてのんびり歩いている人を睨み付けたりすることもあるのだと思う。また街は段差と階段の嵐で、疲れてお茶を飲むところを探そうとするも、12軒目でようやく入れる始末…。

またあるいは「自立」という概念について。人の手を借りて「生活」を営む障害持ちたちを指して「それが自立生活か?」と言う人がいる。「自助努力、自己責任」が叫ばれる今、ますますそう言われるし、そう言っている人々は自分が「立派に」「自立」をしていると思っているのであろう。かつてチンコになり気味のクリトリス肥大症であったゲバ子は「立派な自立」気取りであった。

しかしである!! オナニーを肯定し開発することなしに「性的自立」はありえないわけだし、自分の身の回りのことを妻や母のシャドウワーク(助け合いでなく)に頼っているのは自立ではないわけだし、そもそも我々がにんじん一本だいこん一本買うのにしたって、マスコミのコマーシャリズムの影響を多分に受けているわけだし、自分は「自立」して会社で立派に働いているつもりでも、それは小学校からはじまる「学校化社会」の中からは抜けきれていないわけだし、一体一体この世の中のどこに「自立」があるのだろう?? そんなおこがましくも浅ましい「自立」の概念を傘に、自分はすっかり「立派に」「自立」した顔して、健常者は、障害持ちたちに「自立を!」と言ってくる、とある障害持ちが怒っていた。

長くなったが、このようなゲバ子のフェミの響き合いと一緒に生きるていくことからわかる「気づき」が、今のゲバ子の「悦び」なのであった。その「悦び」をゲバ子は、ゲバ子は失いたくないのであった!!

ところで…・。

ゲバ子が障害持ちたちとブルブル闘争記を続ける中でわかってしまったことがあるのだ。 厚生労働省側と交渉をする交渉団メンバーは全員、オ・ト・コ。さらに厚生労働省前でマイクを回していくとたいていマイクを握るのはオ・ト・コ。そして盛んにすっかり「闘争モード」のシュプレヒコールを叫んでいる。

ゲバ子にとって極めつけは、いつもは陽気で面白く、よく話をする障害持ちのチンコ持ちが、すっかり闘争モードに入り、自分の周りに「男」を集めだし、これからの作戦などを話していることであった。ゲバ子にも怒りがあるのに、ゲバ子には話さない。「男」に話す。ここではじめて、「そうか、泊まりこみ覚悟の、厚生労働省に突入覚悟の闘いに、女は数に入らないのか」と気づいたゲバ子であった。

あ?? これって、何かに似てない?? 
リブである。

60年代・70年代の左翼闘争の中で、女が世の中を変えようと一緒に闘おうとしても、「メス」として生かされてきた女たち。田中美津さんによれば、

「想えば女は新左翼内部においてもメスとして存在してきた。・・『革命家』ぶった男の活動資金稼ぎ、さらには家事、育児、洗濯などの氷山の見えない部分にあたる重い日常性のほとんどを、暗黙の暴力をもって押し付けられてきたのだ。…女の痛みをさらに増すだけの革命なんて、しょせん男の革命にすぎなかったのに、『結婚するなら運動してない娘』と高言してはばからない男に、より小さく縮こまって、バリストの中でさえ、飯作り、便所掃除を担ってきた女という名のメス達」
(「いのちの女たちへー取り乱しウーマン・リブ論」)である。

そして当時のスローガンがしっくりこず、ゲバ棒すら握れず、機動隊を前にしてハラハラしている自分が、意識が低いのではないかという劣等感を感じていた美津さんが、気づくのだ。

「あたしは人間として闘ってきた己れのウソッパチが、ようやくわかった。そもそも女であって、そして人間であるあたしであった。しかし、それでもまだ言い足りない。女から逃げている女は女ではなかった。女をメスとしか生かさないこの世であれば、人間はもとより、女でもなく、あたしはメスとして生かされているのだ。自虐的な意味ではなく『視たものは視たのだ』という思いで、まずそれを確認する必要があった。闘い切れなかった理由は意識性の低さではなかったのだ。闘争主体として己れの原点を何に求めるかがあいまいであったからだ。その原点とは、己れの痛み以外のものではない。」
(「いのちの女たちへ」)

ゲバ子は自分が「闘争の数に入っていない」ことを身をもって感じた。自分がどうでもいい人間にされる感覚。それでも「メス」としてスローガンを描く旗を縫うことを期待されるゲバ子であった。ああ、こういうところで、こういうところで、美津さんのリブは生まれたんだろうと実感するゲバ子であった。

以前のクリトリス肥大症のゲバ子なら「頑張って」「頑張って」数に入って闘争をしようとしたかもしれない。チンコ持ちと同じように。でも、ゲバ子はリブに、フェミに出会っているのであった。さらに、ゲバ子の周りには障害持ちのマンコ持ちたちのパワーがあふれているのであった。だからゲバ子は、この「チンコ持ち」たちの輪に入らなくていいのだ、むしろ入るべきではないのだ、と思えた。そしてそのチンコ持ちたちの輪を尻目にゲバ子は手を伸ばしマンコ持ちの手を探りはじめた。

すると、厚生労働省の若い役人を捕まえて、「あなた達がやっていることはこういうことよ」と声を荒げるでもなく、でもとうとうと説得しているピア・カウンセラーの安積遊歩さんに出会ったほか、自分の言葉で自分のトーンで訴える障害持ちや障害のないのマンコ持ちたちに出会うことができたのである。そして彼女たちがマイクを握り語り、ともにいると「ああ私もここにいよう」とココロから思えるのであった。 その手の確かさと温かさをゲバ子は決して決して忘れない!!

結局、ホームヘルプサービスの補助金の上限設定をめぐる一連の騒動は、地方自治体の担当部長級会議の前日に、交渉団と厚生労働省との間で一旦の解決をみた。その解決とは、今後補助金交付の新たな基準づくりをするが、その検討委員会に当事者の代表を加えること、その基準が作られるまでは現状を維持するための調整金を交付すること。

しかし、4月からの支援費制度スタートを前に、その検討委員会の人選や人数もはっきりしていないほか、支援費制度のもとで今と同じようにサポートを得られるのか、これから地域で暮らそうとする人にお金が回るのかさっぱりわからない状態が続いている。施行まであと1ヶ月なのにである。また地域の役所は「国次第」といい、厚生労働省は厚生労働省で財源のない地方公共団体を尻目に「地方は地方でやってくれ」という態度を崩していない。

さらに現場では、障害持ちの母親が生きているとたとえ60でも70でも「お母さん生きていらっしゃるから、ホームヘルパーいりませんね」と役所に言われたという話や、「障害者の社会参加」を謳いながら「仕事をしているならヘルパーの派遣時間を減らす」と言われたという話が続出している。それに「支援費」制度は、役所が派遣時間などをすべて決めるので、旅行や緊急対応などの融通が全くきかず、自分の人生自分が作る!! ってな思いから全く離れてしまう可能性大である。

このように、ゲバ子とゲバ子の周りの障害持ちたちの「いのち」と「せいかつ」のかかった闘いはまだまだ終わっていないのである。
しかし、障害持ちや持っていないのマンコ持ち、ココロやさしい障害持ちのチンコ持ちの手の温かさをたよりに、闘争を続けていきたいと思っている所存である!! 同志諸君!! 今回のゲバは、ゲバ子が障害持ちたちと響きあう開き直りパワーとフェミとの出会いに感謝して送る!!



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VOL.70 [2004/01/31]
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「年始から夜露死苦!」
VOL.68 [2003/12/27]
「世のフェミ集まれ!」
VOL.67 [2003/12/01]
「土井さん、辻元っさん、川田さんへの連帯を忘れまい!!」
VOL.66 [2003/11/01]
「イラク叩き売り! 後編」
VOL.65 [2003/10/11]
「イラク叩き売り! 前編」
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VOL.62 [2003/08/30]
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