
こんにちは。アジ原ゲバ子でございます。
皆さん、明けましておめでとうございます。…と年が明けたらとりあえず「めでてえ」ってことなんであろうが、年末に、とある不幸がゲバ子の耳に飛び込んだ。
松井やよりさんが亡くなったのである。
松井やよりさんと言えば、あの2000年に行われた女性国際戦犯法廷を提唱した人である。
それまでも新聞記者という仕事を通して、他のアジアの国の女性運動や元「慰安婦」と言われる女たちのこと、日本企業の経済活動が他のアジアの国の人権を侵害していることなどを精力的に取材してきた松井やよりさん。
元「慰安婦」と婉曲的に呼ばれる女たちに図りしれない苦しみや死や病をもたらした元日本軍による「性奴隷制」の全容がこれまで明らかにされることはなかったし、それに基づいて「性奴隷制」自体が裁かれることも、責任者が裁かれることもなかった。日本がかつて行った国家的犯罪について、日本政府は当初「民間がやったこと。国は関係ない」と言い続け、それを覆す証拠が出るや、国が関与していたことを認めたものの、徹底的な事実解明の作業もなくあいまいな「お詫び」をし、さらに法的責任を否認してそれに基づいた賠償責任を時効などを理由に否定している。彼女たちは、旧日本軍の元「慰安婦」であったということで、戦後日本政府や日本にいるチンコ星人たちのみならず、自分の生きている地域の人々からもいわれなき差別や中傷や苦しみを受けてきた。
ひとえに「女」であったが故である。
そして90年代からは、自分の苦しみの根源を明らかにしていわれなき中傷や差別を乗り越えて「名誉と尊厳」を回復すべく、被害にあった女たちが自らの経験を語り始め、日本の検察に告訴をしたり、賠償を求めて日本の裁判所に提訴するも、現在にいたるまで時効などの形式的な法適用のみでことごとく却下されてきていることは、これまでもご紹介しているとおりである。
元「慰安婦」と呼ばれる彼女たちが、号泣がとまらなくなったり、ヒステリー状態になったり、体が硬直したり、気を失ったりなどのPTSDと闘いながら自分の被害について述べても、である。
さらには90年代以降の国際法の解釈のありかたからすれば、「性奴隷制」のような「人道に対する罪」にあたるような戦争犯罪に時効はない、という考えが浸透しているのにかかわらず、である。
そして、第二次世界大戦下においても明らかに「国際法違反」であった「女への攻撃=性奴隷制」が不問にされ不処罰にされてきたことが、現在の紛争下・平時下の女への暴力につながっていたのであった。旧ユーゴスラビア紛争下でのレイプキャンプしかり、ルワンダにおける集団強かんしかり、今この瞬間沖縄などにおける軍事基地周辺で頻発する性犯罪しかり。女に対する性暴力の日常的な軽視もしかり。
だーったら、自分たちの手で国際法の叡智を結集して「性奴隷制」を裁いちまおうじゃないの、というのが松井やよりさんの提唱であった。
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス。
裁かぬなら裁いてみせようそのチンコ。
そしてそれは「加害の国にいる女としてできることだ」と松井やよりさんは言っていた。
ってなわけで、韓国やインドネシアなどで元「慰安婦」問題の解決に取り組んでいた女性運動の人たちと連帯し、旧日本軍による性奴隷制の全容を明らかにし、それを当時の国際法に照らして違法性を判断し、かつての日本政府の継続性から発する現日本政府の法的責任を明らかにし、さらには性奴隷制度の企画・施行の責任者を明らかにしてその可罰性を宣言しようという、「女性国際戦犯法廷」が開かれたのである。
時は2000年12月8日から12日。性奴隷としての苦痛と屈辱の歳月から50年以上たって加害国の首都で開かれたこの民間法廷に、8カ国64人の元「慰安婦」の人たちが集まり、証言をし、それを3000人近くの人たちが証言を共有し、見守るというかたちになったのである。
今でも、ゲバ子は「女性国際戦犯法廷」に参加した時の衝撃を忘れない。
当時ゲバ子は、「私はフェミに生まれた(I was born in FEMI)」と豪語してやまないずーずーしい同士キタハラとは対象的に、フェミと出会ってまだ年数の浅い、フェミバージンであった(むふふ)。まだクリトリスの充血も収まらない純情と情熱を持ち、ゲバ活動もはじめたばかりであったのだ。
元「慰安婦」と呼ばれる人たちのことは「頭」では知っていたが、まだきちんとした出会いを果たしていなかった。
でも彼女たちが受けざるを得なかった残虐きわまる行為や苦痛や差別は自分と無縁ではない、いやむしろ彼女たちの苦しみの一部はゲバ子の苦しみと通じるものがある、とどこかカラダがわかったいた。
だって、あまりにも女はチンコ星人たちに殺されるから。女は犯されるから。貶められるから。馬鹿にされるから。正当に扱われないから。
そしてこの法廷に参加したゲバ子は、まず今まで「頭」で理解していた元「慰安婦」と婉曲的に呼ばれる人々の「生」(なま)に出会った。
当たり前だが、笑いさざめいていたり、おしゃべりをしていたり、しかめっ面をしていたり、色とりどりの服を着た色々な国の色々な顔のおばあさんたち。そして彼女たちがカラダの奥底を振る絞るようにして話した旧日本軍による被害の数々…・。
彼女たちが見せる、日本刀で斬られた跡や拷問されてゆがんだ体などの目に見える傷や、証言の途中で失神してしまうような壮絶な体験を経た目に見えない傷を目の当たりにするにつけ、ゲバ子もどことなしに痛み、そして涙するのであった。
そして国際法の権威の数々も検事や裁判官として参加した当法廷で、最終日には旧日本軍性奴隷制に関して「天皇有罪、国に法的責任あり」という認定がでたのである。
やっと元「慰安婦」と呼ばれる人たちの「名誉」や「尊厳」が回復されたこの判決に(逆にいえば「名誉」や「尊厳」のみ回復されないのであるが)、会場中が大きな拍手に包まれ、目の前に座るおばあさんが涙を拭いたりしていたのであった。
あの日、ゲバ子の「生きる」と元慰安婦の人たちの「生きてきた」と「生きる」が、ゲバ子の中で衝撃的出会いを果たしたのである。
そして彼女たちの苦痛が痛みが声が、過不足なく受け入れられ、正当にすくいあげられる瞬間に立ち会ったのである。
さらに今までこの元「慰安婦」という人々の存在に無知でいれた自分について考えてみた。つまるところ、新聞やテレビや多くの影響力を持ったメディアにはゲバ子の出会いたい人や声がほとんどなくて、ほんとに出会いたい、あるいは出会いたい声はあっても、数多くの情報とともにキレイに整頓されて個性のない画一的なニュースに一つに(自分の中で)なってしまうんだな、というあったりまえのことに気づいていしまった。
だから、出会いたい、と思った。
元慰安婦と呼ばれる人たちの声に、隠されて押さえつけられてきた声に。
それからのゲバ子は、東に証言集会あれば行って涙を流し、西に講演会があれば行ってともにゲバり、という宮沢賢治のでくの坊のようなことをやってきた。
時間の制約は常にあるにせよ、その気持ちは今も変わらない。
出会いたい、出会いたい!!
そんな気持ちを生んでくれたのは、まさにあの松井やよりさんの提唱した(実際実現したのは日本のみならず他のアジアの国々の女性運動の連帯の賜物であったのは言うまでもない)2000年「女性国際戦犯法廷」であったのだ。
「私たちには共存する人間の尊厳を守る努力を続ける以外に自分の尊厳を守る方法はないのである」はアメリカの法学者であり女性国際戦犯法廷にも思いを寄せていたノーマ・フィールドさんの言葉である(「裁かれた戦時性暴力―「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」とは何であったかー」白澤社発行・現代書館発売P33)。そのことを教えてくれたは「女性国際戦犯法廷」であったのだ。
松井やよりさんが亡くなって、いろいろな人が松井やよりさんに対する色々な思いを語ったのを聞いた。
ゲバ子には松井やよりさんが「心の支え」であったわけでも、「闘う雄姿にいつもいつも励まされた」というわけでもない。
確かに、つくる会の教科書問題のときも、有事法制のときも、アメリカのアフガニスタンの攻撃のときも、「むむ!!きな臭い!!やばい!!」と思ったときにはいつもいつもそこに松井やよりさんが先頭に立っていた。どんなに右翼が威嚇しようとも、(もちろん松井さんの周りに信頼できる仲間がいたから)すっくと立ちはだかってやまない松井さんであった。
どんなときも、どんなときも、眩しすぎる、強すぎる松井やよりさんであった。
でもきっと、松井やよりさんが亡くなったことを聞いて、生まれたゲバ子の感情は、ゲバ子のココロの炎を点火してくれてありがとうっていう感謝の言葉だ。
松井やよりさん、ゲバ子は半径3メートルのフェミだ。オナニストだ。
「やよりさんの意思を継いであたしも頑張る!!」なんてだいそれたことは言えない。というか、言わない。
でも、でも、松井さんが照らした炎は、確実にゲバ子のココロにも灯っていて、その灯った炎をゲバ子は大事に持っている。そしてその炎はゲバ子をいつも燃え立たせている。
ほんとにほんとにありがとう!!
そういえば、2年ほど前に日本で「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が採択されそうになったとき、ゲバ子はウィメンズプラザでばったり松井さんに出会った。その頃、ちょうどVGにメンバーとともに韓国のナヌムの家に行って元慰安婦の人たちと出会い、さらに韓国国内の「つくる会」教科書の反対運動の熱さを目の当たりにしていたので、松井さんに「韓国では雑誌などがのきなみこの問題を扱っているのに、日本では皆無に近い」という話をしたことがある。ゲバ子が一方的に松井さんを知っていたから話かけたというだけの話なのであるが、松井さんは「あら、そういう話、MLでどんどん流してよー」と言ってくれた。これが一対一で言葉を交わした最初で最後かもしれない。
同志諸君!!今回のゲバは、亡くなった松井やよりさんに捧ぐ!!
ゲバ子の中の炎をどうもありがとう!!
そしてさようなら。
最後になるが、松井さんは病床で「女たちの戦争と平和資料館」を建設するという夢を語った。元慰安婦問題のあらゆる資料と今も続く武力紛争下の女性への暴力に関する資料を集め、「紛争の予防・解決・復興協力に積極的に参加する女性が育つ場にしたい」(朝日新聞2002年12月28日)とのことであった。
あっぱれである!!
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